入り組んだ道ではないので直接アパートへ行くと言っておいた。だから迎えはない。駅に着くとふらりと商店街に入り、コンビニで酒を買った。ビールの六缶パック。全部飲むつもりはない。余ったら孔の家に置いておけばいい。
 道をのんびり歩きながら、風間はふと甘い匂いをかいだ。足を止めて周囲を見回すと、とある家の垣根でツバキがたくさん咲いているのが見えた。夜目にも鮮やかな赤い花がそこここで咲き乱れており、ふと辺りを見回して誰も居ないことを確かめた風間は、すっと手を伸ばして一本失敬する。そうして思わず逃げるように夜道を急いだ。
 呼び鈴を押したが反応はなかった。換気扇は回っているのでなかには居るようだ。壊れているのかも知れない。仕方なくドアをノックすると、驚いたように孔が顔を出した。
「早いな」
「少し早く着きすぎた。詫びの代わりというわけではないが」
 そう言ってビールを差し出すと、孔は眉をしかめた。
「風間は、酒を呑むのか」
「たまにな」
 さすがに寮で飲むのはまずいので、数少ない自宅通いの同級生宅に集まって酒盛りをすることがあった。それほど強いわけではないが酔うのは嫌いではない。
「飲んだことは?」
「少し、ある」
 風間をなかに招き入れながら孔が答えた。
「店で飲む。仕事終わったあと。店長が好きだ。付き合えと言う。少し飲む、だけど苦手だ」
「酒は嫌いか?」
「嫌いではない。だけど、苦手だ」
 弱いという意味だろう。靴を脱ぐと風間はもう一方の手に持っていたツバキを差し出した。
「これは?」
「土産だ。ツバキという花でな、これなら窓際に置いておける」
 孔はツバキを受け取るとしげしげと眺めた。
「見たことがある。今、咲いているな」
「ああ。日当たりのいい場所に置いてやってくれ」
 ありがとうと呟くと孔はグラスに水を入れてそこへツバキを挿し、窓際へと持っていった。
 今夜はおでんが煮えていた。
「作るのが大変だったろう?」
 実際に作ったことはないが、長く煮込まなければいけないことは知っている。上着を脱ぎながらそう聞くと、孔はあっさりと否定した。
「簡単だ。材料を買う。切って煮る。おしまい」
「そうなのか」
「普通に飯を作るよりいい。鍋は簡単だ」
 だからもっと来いと言って孔は笑う。許されるのなら毎日でも来たいと思ったが、口には出さずにただ笑い返した。
「あれは日本の花だな。中国にはない」
「そうか。日本の花で好きなものはあるか」
「サクラ」
 孔は即答した。
「あれは、いい。温かくなると咲く。春だと思う」
「そうか」
「今度も見られるかな」
 ぽつりと呟いて孔は鍋のふたを開ける。
 そう、まだ決定ではないのだ。ビザが発行されるかどうかはこれから決まる。だが風間は悪い未来を予想することはやめにした。
「見られるさ」
 当たり前だというふうに呟いて窓際に腰をおろす。
「風間、反対に座る」
「うん?」
「そこは寒い。具合が悪くなる。反対に行く」
「構わんよ」
「駄目だ。反対に座る」
 孔は頑として譲らないので、仕方なく移動した。
「この前知った。そこは寒い。いつもコーチが座っていた。私は反対。風間が帰って片付けた。座って、寒かった。初めて知った」
「そうか」
 寒さなど忘れていた。ヒーターが効いていたし、気にするような余裕もなかった。
 鍋を持ってきた孔が、風間の姿を見下ろしてふと小さく笑う。「なんだ?」と聞くと、
「人が居るのは、いいな」
 考えてみれば寮ではいつも誰かが部屋に居るし、他にも仲間が大勢暮らしている。親元を離れていても、孔のような孤独はまだ味わったことがないのだ。
「店に中国の人が居る」
 向かい側に腰をおろしながら孔が言った。
「その人に言われた。私が日本に残るなら一緒に住まないかと」
 鍋に伸ばした手が止まった。
「…それで?」
「考えた」
「一緒に住むのか」
「まだ、わからない。まだ日本に残るか決まっていない。それに部屋を替えるのは金がかかる。それに」
 言葉を切って孔は眉をしかめる。
「その人、煙草を吸う。あれは嫌だ」
「煙草は嫌いか」
 動揺した反動で風間の笑いは大きなものとなった。孔は嫌そうな顔をしたまま何度もうなずいてみせる。
「父親がたくさん吸う。友達も吸う。だけど私は嫌いだ」
「ならよした方がいい」
「そうする」
 安堵して風間はビールのふたを開けた。そして同じような誘い文句を言ってしまいそうになるのを、ビールを飲んで阻止する。煙草が嫌いだという孔に、なら吸わない私は嫌われないなと考えてしまった自分が嫌だった。
 苦手だという割に孔はよく飲んだ。そう言うと、
「すぐに寝る。店で飲んで、帰るのが嫌になる」
「それは苦手とは言うまい」
 だが言葉どおり、確かに眠そうな目をしている。家で飲んでいるという安心感もあるのだろう。
「上海にはいつ戻るんだ」
「二十、五。中国の正月がある。家で祝う」
「中国の正月は派手そうだな」
「新しい年だ。みんな喜ぶ…」
「――大丈夫か?」
 今にも眠ってしまいそうだ。大丈夫、と呟き返しながらも、軽く舟をこいでいる。しばらく楽しむようにその顔を眺めていたが、ふとトイレにたって戻ってくると、さすがに心配になってきた。いくらヒーターが付いているとはいえ、このまま眠ってしまったら風邪を引くのは確実だ。
「孔」
 脇で腰をかがめて、ぺちぺちと頬を叩く。
「起きろ。こんなところで寝るな」
「ん…」
 わずらわしそうに首を動かして風間の手から逃れると、孔は何度か目をこすった。小さくあくびをして、
「寝る、違う。少し休む…」
「だから休むなら――」
 言い終わらないうちに、また目を閉じてしまう。窓枠に頭をもたげて、体をななめにしたまま、器用にも寝入っている。風間はしばらく呆れたようにその寝顔をみつめていたが、倒れてしまいそうなのが怖くて隣に腰をおろした。孔の寝息をそばで聞きながら、ビールの残りに手を伸ばす。
 やめておけば良かったかなと、少し後悔した。
 そっと息をついてビールを飲み干すと、することもなく天井をみつめた。やがて、肩になにかがのしかかってきたので驚いて振り向くと、孔の頭が肩に乗っていた。思いのほか長いまつげにしばらく見とれたのち、風間はゆっくりと手を伸ばして孔の肩を抱いた。他人の体の重みがこんなにも心地良いものなのだなんて、初めて知った。
 見ると、孔は気持ち良さそうに眠っている。息を殺しながら孔の額に軽く唇を触れて、そのまま黒髪のなかに鼻先をうずめた。そうして孔の匂いをかぎながら、温かくなったら桜を持ってきてやろうと風間は考えた。

  −桜の花 了−


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