「これはポン酢と醤油で食べる物だ」
「ポン…?」
「ポン酢。レモンのように酸っぱいゆずという果物の汁だ。それと醤油をあわせて食べる」
「どれだ?」
 言いながら孔は小型の冷蔵庫を開けてみせる。こまごまとした調味料のなかにポン酢がみつかったので取り出したが、瓶のラベルが少し古ぼけている。賞味期限を見ると今年の夏で切れていた。
「これでいいのだが、これはもう古いな」
「駄目か」
「やめた方がいい」
 未開封ならまだしも、少量だけ使った跡がある。
「いつ買った?」
「……前の、年の、冬」
「去年?」
「そう、去年。去年の冬だ」
 国際人などという言葉を知りながら、去年という単語が出てこないのもおかしな話だ。
「風間が驚く顔を初めて見た。お前は本当に面白い」
「お互い様だな」
 ぽつりと呟きながら風間は野菜の煮え具合を確認した。
「そろそろいいだろう」
「これはどうする?」
 そう言って孔はポン酢の瓶を振ってみせた。
「なくて大丈夫だ。醤油だけでもなんとかなる」
 少し味気ないだろうが、下手に古い調味料を使って具合を悪くするよりはいい。
 鍋を持っていった時、ベッドの奥の窓枠のところに、竹が植わった小さな鉢があることに気が付いた。殺風景な景色にふと色をみつけたような気分になった。
「あれはなんという植物なんだ?」
 鍋を置きながら孔に聞くと、ポン酢の瓶を未練たらしくみつめたまま「ミリオンバンブー」と答えた。
「中国では良い木となっている。寺には絶対にある。金が貯まるという」
「なるほど」
 その説明文句には笑ってしまう。ベッドを乗り越えて、土に刺さっている説明書きを読むと「水だけで育つ丈夫な植物です」とあった。続けて「直射日光を避け、明るい場所で保管を…」と読んだところで思わず鉢ごと持ち上げた。醤油と箸を持ってやってきた孔に差し出しながら、
「日の当たる場所を避けろとある。窓際は良くないようだぞ」
「本当か?」
 孔は鉢を受け取ってまた中国語でぶつぶつと呟きながら部屋のなかを見回した。いい置き場所を探していたようだが、みつからず、結局台所へと持っていかれてしまった。
 しっかりしているようで案外抜けているらしい。
 ――本当に人は見かけによらないものだ。
 風間は苦笑を噛み殺した。


 普段食事中はあまり喋らない風間だったが、二人きりでは黙っているわけにもいかない。それに孔があれこれといろいろ話を振ってくるので食卓は意外とにぎやかなものとなった。
「日本と中国はだいぶ違うのか?」
 いい感じに腹も膨れ、鍋の中身も殆どなくなる頃には、二人ともくつろいだ様子で向かい合っていた。
「違う」
 即答しておいて、孔はふと考え込む。どう説明しようか考えているようだった。
「土地が、狭い」
「まあ比べ物にはならないな」
「人と人が近い。みんな小さく作ってある。嫌だけど、ぶつかる」
「人が多いということか?」
「少し違う。確かに人が多い。だけど中国も人が多い。だけど中国は、みんな大きい。日本より大きい。道路、電車。日本はあいだが少ない」
「土地の狭さも関係あるだろう」
「ある。だから、初めは怖かった。人が多い。看板が多い。音がうるさい。日本人は頭がおかしいと思った」
「こんな窮屈なところに良く住んでいると?」
「キュ…」
「きゅうくつ、だ」
 ウーロン茶を飲んで風間は繰り返す。
「狭くて好きに動けないような状態のことだ」
「そう、それ。キュークツ」
 そう言って孔は口のなかで何度もキュークツ、キュークツと繰り返す。
「まあ島国だからな。仕方ないといえば仕方ないが…」
 それでも他国からすれば、日本人の生活は狂気の沙汰なのかも知れない。そう思ってふと孔を見ると、彼もこちらをみつめていた。「なんだ?」と聞くと、
「風間も教えるのが上手い。風間、私の先生になれ」
「私が君の?」
「そう。私は中国を教える、風間は私に日本を教える。両方バンザイだ」
 思わず笑いが洩れた。
「駄目か?」
「いいや、そんなことはない。私でわかることならなんでも教えるさ」
「あと、花が違う」
 ふと台所を振り返って孔が付け加えた。
「あれは、中国にたくさんある。だけど中国にあるのに日本にない花がある」
「ほう。たとえば?」
「…名前は知らない。だけど匂いが違う。町の空気。――時々、怖くなる」
「怖い…?」
「知らない国に居ると、強く思う。海の向こうに上海がある。飛行機で三時間。だけど匂いが全然違う」
 言いながら孔はわずかに目を伏せた。
「時々海に行く。海の匂いは、日本も中国も同じだ。あの匂いは安心する。だけど町は違う。中国の匂いはしない。全然知らないところに居る、戻るには山の向こう、日本の反対、海を越えてずっと向こう。泳ぐのは大変。戻るのは大変」
「……戻りたいか?」
 年に一度か二度は里帰りしているとはいっても、日本で言えば未成年の若者が、仲間もなく一人ぼっちで異国に暮らしているのだ。国や親が恋しいと言ったところでなんの不思議もない。
 孔はしばらく考え込んだのち、小さく首を縦に振った。
「そうか…」
 やはり卒業と共に帰国するのだろう。卒業まではユースや辻堂学院から資金の援助があるというが、以降は打ち切られるのだ。今ですらそんなに楽ではないのに、資金の援助がなくなっても無理に残るとは思えない。
 だが孔は首を縦に振りながらも、少し迷うような表情を見せた。
「だけど、わからない。確かに帰りたい。上海は楽だ。言葉がわかる。親が居る。友達が居る。金も使わない。だけど…」
「だけど?」
「一年生を教えるのは楽しい。風間は正しいことを言う。私は先生になる、それがいい」
「ユースでも指導は出来るだろう」
 孔は寂しそうに首を振った。
「一年生だから教える。辻堂だから教える。ユースには、もっといい先生がたくさん居る」
「……」
「私のコーチも、立派な人だ」
「例のあの人か」
「ああ。前、ここで一緒に住んだ」
「この部屋に?」
 風間は驚いて部屋のなかを見回した。今実際孔と二人で居るが、それだけでもう一杯一杯だ。居住スペースとしては倍以上欲しいぐらいの筈だ。
「大変だったろう」
「ああ。とてもキュークツだった」
 そう言って孔は笑う。
「夜は布団を敷く。テーブルを台所に持っていく。もうそれで一杯になる。動けない。だけど、面白かった。朝起きると隣にコーチが居る。人が居るのはいい。今は一人だから」
「そうだな」
「一人は、寂しい」
 言葉をそれほど覚えていないからダイレクトな表現になっているのだとはわかっている。だがそれでも、面と向かって寂しいと言われて、風間は思わずその一言を口にしそうになった。
『一緒に暮らさないか』
 風間が進学を予定している大学は神奈川県内にあり、やはり同じく寮がある。実家が都内にあるので家から通おうと思えば通えるのだが、通学の面倒をこなすのならその分練習に使いたい。そう思って寮の申請をするつもりでいた。


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