翌日、指定された時間より三十分も早く駅に着いてしまった風間は、することもなく駅のベンチに腰をおろしていた。冷たい風が吹き付けるがあまり気にはならなかった。多少緊張気味であるのかも知れない。
 そもそもさほど寮から離れているわけでもないのにこれほど早く着いてしまったのは、以前学校前で孔を待ち伏せした時と同じで、どうにも落ち着かなかったからだ。結局今日も午前中だけは体を動かしてきた。もともと勘を忘れない為にと日課で自主練はしているのだが、今朝ばかりはいささか力が入り過ぎたかも知れない。寒さと疲れを癒す為に足をマッサージしながら、風間は時計の分針がじりじりと進んでゆくのを見守った。
 孔は時間どおりにやってきた。
「待ったか?」
「いいや」
 見栄っ張りのところはなかなか治りそうにない。
 二人は並んで薄暗い夜道を歩く。電話ではそれなりに話をしている筈なのに、実際に顔をあわせるとなかなか言葉が出てこなかった。時折孔がちらちらとこちらを見るのが気にかかる。
「なんだ?」と聞くと、
「髪が長い」
 と不思議そうに呟いて笑った。
 部活を引退した時から気分転換のつもりで髪を伸ばし始めたのだ。思いのほか伸びるのが早くて、これまでに一度散髪に行った。そろそろまた行かなければと思っていた時だった。
「おかしいか?」
「いいや」
 そう言いながらも、孔の視線ははずれない。見慣れていないせいもあるのだろうが、あまりみつめられても困ってしまう。
「教えているという一年生はどんな具合だ?」
 視線から逃れようと風間は話を振った。
「なかなか上手い。私と同じドライブだから教えるのも楽でいい」
 とたんに声に弾みがつくのがわかった。なんやかんや言いながらも、やはり芯から卓球が好きなのだ。
「インターハイには出られそうか」
「まだわからない。海王は強い。片瀬には星野と月本が居る。四月に新しい一年生が入る。まだわからない」
「そうだな」
「だけど最後まで頑張ると言った。私も頑張る」
「そうしてやるといい」
 アパートまでは十五分ほど歩いた。駅からは遠いが、辻堂へ通うにはそれほどの距離でもないように思える。二階建てのやや古いモルタル作りのアパートで、孔の部屋は一階の一番奥にあった。玄関脇にそれぞれの家が洗濯機を置いていて、勿論孔の部屋の入口にもある。それを見たとたん、本当に個人的な領域に足を踏み入れるのだと思い、急に緊張を覚えた。
「狭い。気を付けろ」
 ドアを開けて先に入り手探りで明かりをつけながら孔が言った。玄関は入る時に思わずななめになりたくなるほど窮屈だった。それでも続きの台所はそれなりの広さがある。靴を脱いで、お邪魔しますと呟き、一旦台所で家主が進入の許可を下すのを待った。
 部屋は一間だけだった。六畳ほどの広さだろうか、奥にパイプベッドがあり、中央に四角のテーブルがある。それ以外には殆ど見るべきものがないのでさほど狭くも感じない。真正面と右側の壁に窓がある。孔はその窓際の席に青いクッションを置き、「ここに座れ」と言った。
 部屋に入るととたんに油の焦げる匂いが鼻をついた。振り返るとファンヒーターにスイッチが入れられたばかりで、ちかちかとパネルの一部が点滅を繰り返している。
「すぐに火がつく。少し我慢してくれ」
「ああ」
 ジャンパーを脱いで一瞬迷ったのち、風間はそれをベッドに放り投げた。ハンガーが見当たらないので仕方がない。孔も同じように上着をベッドに投げている。台所に立ちながら「なにか飲むか」と聞いてきた。
「ああ――いや、うん」
「どっちだ」
 はっきりしろと、わざとしかめっ面を作ってみせる。
「もらうよ」
「温かいコーヒーと冷たいウーロン茶がある」
「ウーロン茶を」
 さすが中国人だなと思わず苦笑が洩れた。グラスを持ってきた孔はその笑いを目に止めて「なにが楽しい」と怪訝そうな顔をする。
「いや、さすが中国の人だと思ってな」
「なにがだ」
「ウーロン茶。好きなのか?」
「お茶は、好きだ。だけど中国ではお茶は水の代わりだ」
「ほお」
「中国は普通の水が飲めない。だけど買うと高い。だからいつも水を持って歩く。だけど普通の水だとおいしくない。だから瓶に葉を入れて水を入れて、お茶にする」
「水が飲めない? どういうことだ」
 そう聞くと、孔は水道の蛇口をひねり、グラスに水を受けてみせた。
「日本はこの水が飲める。中国は駄目。汚い。飲むと病気になる。体を洗うのにはいい。でも飯に使う水は、きれいな水を買う。その水を持って歩く」
 呆気に取られた。海外では生水は飲むなという話をよく聞くが、実際そんななかで生活をしている人間に会うのは初めてだったのだ。
 孔は流しに寄りかかりながらグラスを顔の前に持っていった。
「日本の水はきれい。だけど中国の水は、色がある。黄河の水の色をしている」
 そう言ってぐいと水を飲み干した。
「ウーロン茶は好きだ。だけど日本には甘いのがない」
「甘いの?」
 初めて孔の生活の場に足を踏み込んだという緊張と混乱に加え、カルチャーショックに見舞われているせいか、風間の思考は完全に停止していた。孔が次にどんな驚きを発するのかと、ただ待ち構えることしか出来なかった。
「上海で売っている。ウーロン茶のペットボトル。二つある。甘くないの、少し甘いの」
「砂糖が入っているのか?」
「中国人は入れる。中国だけとは知らなかった。日本だからあると思っていたのに」
「何故?」
「サントリーが作っている。日本の会社だろう?」
 あんぐりと口をおおびらきにしたまま固まっている風間を見て、どうした? と孔は軽く首をかしげる。風間は目の前のグラスをみつめて、
「…入っているのか?」
「入っていない。日本には甘いのがない。入れるか?」
「いや、遠慮しておこう」
「遠慮するな、中国の文化だ。国際人への入口だぞ」
「どうして君はそういうおかしな言葉ばかり上手いのかな」
 けらけら笑いながら、しかも調理用の砂糖の入れ物を持ってきた孔から風間はグラスを抱えて逃げ回る。テーブルをはさんで二周ほどしたところで先に孔が降参した。
「死ぬわけではないのに」
 そう言って残念そうに肩をすくめる。
「君にとっては普通のことでも、私にとっては死ぬほど恐ろしいことがたくさんある」
「そうか?」
 ――わからんだろうな。
 ここに居ることが既にどれほどの緊張を生んでいるのか、きっと孔には想像もつかないに違いない。やれやれといった感じで口をへの字に曲げると、中国語でなにか呟きながらそっぽを向いてしまった。そんな仕種ですら風間の緊張をいっそう強固なものにする。
 会えなければ会いたいと思い、どうしているかと心配になる。会えば会ったでおかしなことを言うのではないか、嫌な奴だと思われるのではないかと心配になる。どちらにしろ風間の心配の種である張本人は、しかし何事もなかったかのように台所で声を張り上げた。
「風間、せっかくだから少し勉強しろ。他の国を知るのは面白い」
「ああ、そうだな」
 確かに面白い。
「君は教師になるといい」
 食器を運んできた孔にそう言うと、「教師?」と聞き返された。
「先生になれと言ったんだ。物を教えるのが上手い」
 孔は一瞬だけ手を止めて、困ったようにうなずいた。
「それが一番いい」
 あきらめの混じった笑顔を見せられて、風間はしまったと思ったがそれは後の祭りだった。
 年と共に肉体は衰える。それは誰にも避けられない道だ。だからどんなに素晴らしい選手でも必ず引退の時は来る。だがそうではない者も、勿論多い。充分な若さと運動力がありながら、それでも前線を放棄することを自らの意志で決定する者。風間が今まだ必死になってしがみつこうとしている場所から、自らを突き落とすことを決めた大勢の仲間が、海王にもたくさん居る。
 目の前のこの男も、今まさにその決断を迫られつつあるのだ。
 すまない、と言いかけた風間よりも早く孔の方が先に口を開いた。
「確かに私は教えるのが上手い。風間よりも物を知っている。生徒が勉強を出来ると、良い先生と評判が上がる」
 そう言ってにやりと笑いかける。
「だけど残念ながら風間の方が多く知っていることもある。教えて欲しい」
「…なんだ」
「あの鍋はなにをつけて食べればいいんだ?」
「知らずに作っているのか!?」
 あわてて台所に駆け込んだ風間は、一体どんな代物が出来上がりつつあるのだと恐怖と共にふたを開けたが、あにはからんや、中身は普通の水炊だった。
「味はつけていない。それでいいと教わった」
「早く言ってくれないか…」
 ふたを持ったままがっくりと肩を落とした風間を見て、孔はまたけらけらと笑う。人の気も知らないでと少し憎くなったが、それでも失言を笑い飛ばしてくれたことが有り難かった。


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