翌々日の夕飯時だった。真田や猫田といった卓球部メンバーで固まりながら、風間はいつものように黙々と箸を進めていた。
 食堂は寮生でごったがえしている。食事中はあまり喋らず、無心になって食事を片付けるといったふうの風間は、だから自分を取り囲む面子がなにやら意味ありげな目線を互いに送りあっていることを知らなかった。
「のう風間」
 結局声をかけたのは真田だった。風間は漬物を口に放り込みながら「なんだ」と聞き返す。
「お前、女が出来たゆううわさは本当か」
 味噌汁椀に口をつけている瞬間にそんな質問をする真田が、本当は悪い。だから天罰が下った。風間が驚いて口に含みかけていた味噌汁を周囲にど派手にぶちまけ、風間の反応を楽しみにしていた周囲の人間はその被害をおおいにこうむることとなった。
「うぅわむっちゃキタナぁー、はよ拭け」
 メガネに味噌汁がはねた猫田は、あわててメガネを外してジャージの袖で拭きながら手元にあった台拭きを風間に投げつけた。だが風間は味噌汁を吐き出した瞬間からずうっとむせて咳を繰り返したまま変化がない。あのドラゴン風間になんの異変だと、周囲の寮生たちも箸を止めてみつめている。
「お…」
 なにか言おうとして真田に振り返るが、再び咳が始まった。
「済まん、大丈夫か」
 さすがに心配になって真田は風間の背中を何度もさする。やがて片手で口を押さえたまま、大丈夫だというように風間はもう一方の手をかざした。何度か咳払いをしながら今更のように台拭きでテーブルを拭く。
 誰かが運んできた水で喉を潤すと、ようやく真田を睨み返す余裕が生まれた。
「誰だ、そんなバカげたことを言うのは」
「誰って、なあ…」
 睨まれながらも真田は笑いを隠さないまま友人一同と顔を見合わせた。猫田が味噌汁で視界が濁ったままのメガネをすかし見ながら同じようににやにや笑い、
「えろぅうわさんなっとるで、月に一度のラブコール」
「あれは…!」
 否定しようと口を開くが、言葉は途中で止まってしまう。
 一体なんと説明すればいい? いや、本来であれば迷う必要はないのだ。はっきりと孔からの電話だと言えば、それで解決する話だ。だが何故かそうすることはためらわれた。
 そのためらう姿に真実を見出したとでもいうように、真田の笑いがひと回り大きくなった。
「そげん必死になるっちゅうことは…さては図星じゃなあ!」
「うっわー、マジですか!?」
 テーブルの周囲は騒然となった。ただでさえやかましい食堂が、歓声と口笛と誰かのはしゃぐ声で、もう滅茶苦茶だ。
 風間は否定する気力も失せて、ただただ騒ぎが治まるのをおとなしく待った。何故待つのかは自分でもよくわからなかった。多分言い訳をしたいのだろうけれど、普段なら絶対にしないであろう言い訳を今夜に限ってしたいのは、やはり心のどこかにやましい気持ちがあるせいなのかも知れない。
「の、の、の、どげん女じゃ、どこで知りおうた?」
「歳は? どこの学校なん?」
 好奇心丸出しで詰め寄ってくる真田たちの顔を見て、風間は言い訳をする気力も失せてしまった。下手に口を滑らせれば全て打ち明けるまで放してくれないだろう。なにも隠す必要はないとわかっているのに、それでも風間は、孔のことを面白おかしく誰かにうわさされたくないという自分の意思に従うことにした。
 トレーを持って無言で立ち上がった風間に、「名前だけでも教えぇや」と真田がすがるように声をかけた。
「名前が知りたければ寮長に聞いてくれ」
 電話を受けるのは寮を管理している中年の男性である。この寮長は人あたりが良くプライバシーを洩らすことは絶対にない、貝のように口の固い、信頼のおける人物だ。だからこそ安心して寮の管理を任せられるのだった。
「寮長が素直に話すんやったら、わざわざお前に聞かへんわ」
 寮長の貝の如き口の固さをみんな知らないわけがない。落胆したような猫田をちらりと振り返り、だが結局風間はそれ以上なにも答えないまま食堂をあとにした。まっすぐ部屋に戻る気になれなくて、少し外の風に吹かれようと考える。
「こんばんは」
 窓口で声をかけると、少し奥でテレビを眺めていたくだんの寮長が姿を現した。
「やあ、こんばんは。なにか御用ですか」
 この香川という寮長はどの生徒に対しても敬語を使う。自分の子供のような年頃であるだろうに、横柄な態度を取ることは決してない。だからなのか、誰からも慕われる人物だった。勿論風間も好きだ。
「少し外出します。点呼までには戻ります」
「わかりました。気を付けて――」
 そう言いながら、香川はふと言葉を止めた。じっとこちらをみつめてくるので、「なにか?」と聞くと、
「風間君、どうかしたの」
「なにがですか」
「顔、赤いですよ」
 言われるまで気付かない自分が愚かなのか。
 風邪ですか、という香川に、大丈夫ですと答えて風間は靴を履く。扉を抜けると冷たい風が吹きつけてきた。ほてった頬に心地良いと感じるのであれば、やはり幾らかのぼせていたのだろう。
 門を出て道を歩き出したはいいが、どこへ行くとも当てがない。仕方なく学校の方を目指してぶらぶら歩きながら、何故本当のことを話さなかったのだろうと考えた。
 別に話したって構わないことだ。孔からだと言えばきっとみんな、すぐに興味を失ってしまったに違いない。下手に隠し立てするから余計に知りたくなるのだ。そんなの、わかりきっていることなのに。
 ひとけのない歩道を歩きながらしばらく考え込んだのち、ひどい人間だな、と風間は自分に評価を下した。
 孔のことを話さなかったのは、他人のプライバシーを勝手に洩らすのが嫌だという従来の自分の考えがまずある。
 基本的に風間は口が固い。だから友人からなにかと相談に乗ってくれと頼まれることが多かった。そして、わざわざ日本に来ておきながら活躍出来なかった情けない留学生、という(これまでに幾度か耳にした)嫌な言葉を聞きたくないという事実。
 なにより風間が恐れたのは、孔の現状を聞いて、自分と同じように何らかの形で手助けすることは出来ないかと誰かが言い出すことだった。
 孔の力になりたいというのは本心だ。けれど自分以外の誰かが実際孔に助力の手を差し伸べる姿は見たくなかった。たとえそうなれば少しでも彼の負担が減らせるとわかったとしても、それは、嫌だった。
 頼りにされているという自負はあった。孔から電話をもらうのは、ただのクラスメートや部活の仲間ではきっと理解し得ないなにかを自分が持っているからだ。共に頂点を目指し、挫折と苦悩にまみれながら同じような道を歩み、そして今またその道から拒絶されようとしている。その恐ろしさは、通常の人間にはわかるまい。同病相憐れむというわけではないが、同類でなければ理解しがたいものはある。
 そうやって、わずかながら孔が差し出す助けを求める手を、他の誰かに渡したくない。それだけだ。
 自分がこんなにわがままだとは思いもしなかった。こんなにも嫌な人間だと初めて知った。――それでも、
『飯を食べに来ないか』
 会いたい。
 電話で声が聞ければ嬉しい。誘ってもらえて天にも昇るような気持ちだ。たとえそれが、寂しさをまぎらわせる為だけだとしても。


 再び孔から電話があったのは、冬休みに入ってすぐのことだった。幸い真田たち三年生は受験のことがあって早々帰省していたので、電話を受ける姿は見られずに済んだ。
『いつがいい?』
「いつでも構わんよ。明日でも明後日でも、君の都合のいい日を選んでくれ」
 寒い廊下で声をひそめながら風間は微笑んだ。
『それなら明日』
「わかった。時間は?」
『六時に駅。迎えに行く。大丈夫か』
「ああ。――学校は休みになったのか」
『なった。だけど少し部活がある。あとはずっと仕事』
「まだ部に出ているのか」
 この時期に三年生が部活に参加するなど通常では有り得ないことだ。驚いて聞き返すと、孔は当たり前だと答えた。
『一年生を教えている。次のインターハイに個人で出たいと言っている。どうせ暇だから、私が付き合う』
「先生の代わりか」
『そうだ。先生は助かる。私も楽しい』
 孔の声は弾んでいた。楽しいというのは本心のようだ。無理やり参加させられているのでないなら好きなようにすればいいと思うが、ただ「暇だ」という言葉が少し気にかかった。
 普通この時期であれば受験なり就職なり、とにかく卒業後に向けてなんらかの動きを取る筈だ。だが孔はそんなことなどおくびにも出さない。卒業後はどうするのか聞きたい気持ちは相変わらずあったが、どのみちいつか離れなければならないのなら、せめてそれまではそのことを気にせずにいる方がいいのかも知れないと風間は考えた。
 少なくとも、明日にはまた会えるのだ。
「じゃあ明日」
『ああ。六時にな』
「わかっている」
 電話を切ったあとの寂しさは、何故か会えるとわかっている時の方が強いのだと、その日風間は初めて知った。


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