それ以来、確かに殆ど会うことはなかったが、月に一度か二度の割り合いで電話がかかってくるようになった。
『別に用はない』
最初に素直にそう告白し、それでも良ければ少し付き合ってくれと孔は言い、なんとなくお互いの近況を報告しあう。そんな電話だ。バイト先での愚痴が多い気がして少し心配になったが、それでも悪い人は居ないという孔の言葉に安堵する。
孔のバイト先は駅前の中華料理屋だった。店主が北京で料理を学び、日本に帰ってきて開いた店だそうだ。バイト仲間のうちに、一人だけだが同じく中国から来た留学生がおり、仕事中によく話すのだと孔は言う。
店には一度だけ行った。
それから二ヶ月ほどが過ぎただろうか。もう今年も二週間足らずで終わりになる、そんな頃に風間は、孔からの定期連絡を受けていた。
『なら大学受かったのか』
「まだだ。年明けにあらためて入試を受ける。試験と個人面接。それで合否が確定となる」
受話器を肩と頬ではさみ、両手を無意識のうちにこすりあわせながら風間は言った。一応廊下にも暖房はかかっているのだが、玄関そばでは入口から冷気が漂ってくるので、どことなく薄ら寒く感じられた。
昨日、希望する大学から推薦入試の書類選考を通過したという通知が届いた。年明けすぐの頃に正式に入試が執り行われ、合否が発表される。もっとも風間のような選手であれば引く手あまたの状態なので、試験とは言え名ばかりのものだ。落ちることは絶対に有り得ない。
『それなら受かったのと同じだ。良かったな』
「ああ、一安心というところだ」
受話器を持ち替えて風間は足元に視線を落とした。誰が通るかわからないこんな場所で、あまりにやけた顔は見せたくなかった。
「そちらはどうだ? なにも変わりはないか」
『バイトが一人辞めた』
「ほう」
『慣れた人だったから店長が困っていた。私も大変になる』
「働く時間が増えるのか」
『そうだ。辻堂の先生は、無理をするなと言った。だが私も金が要る』
「そんなに苦しいのか?」
言った瞬間、バカなことを聞いたと思った。そんなのわかりきっていることではないか。案の定受話器の向こうで孔があきらめの混じった笑いを洩らした。
『この国では息を吸うにも金が要る。…それに、あまり親に無理をさせたくない』
「君のご両親も同じように思っている筈だ」
『……』
「学生は勉強をするのが仕事だ。金が必要なのはわかるが、働きすぎで体を壊しては意味がない。きちんと休め」
『…わかった』
「なにか私に手助け出来ることはないのか」
なにもないことはわかりきっていた。それでも、どうしても言わずにはいられない。きっと孔はいつものように笑ってなにもないと言うだろうけれど、それでも。
『風間はいつも同じことを言うな』
そう言ってやっぱり笑った。
「…君が心配なんだ」
中国に戻るのではないかと不安になり、生活は大丈夫かと心配になり、今は今で、卒業後はどうするのだろうと不安になっている。孔のことが心配だという言葉は決してウソではない。だが安心したいのは孔の為ではない、ただ自分の為だ。そのことに気付いて、風間は言葉を失った。なにを言っても偽善になる。そんな自分が腹立たしく、もどかしい。
『ありがとう』
孔の素直な一言が、自分に対する苛立ちをやわらげてくれる。
風間は受話器に耳を押し当てた。もっとしっかり孔の声が聞きたかった。電話線を通してではなく、直接、目の前で姿を見ながら話したかった。
会いたい、と思った。
『働きすぎない。きちんと休む』
「約束してくれ」
すがるような声が出てしまった。風間の剣幕に気圧されたのか、孔は一瞬黙り込み、それでも、
『約束する』
――会いたい。
今すぐ受話器を放り出して駆け出したかった。何故目の前に居ないのだと怒りすら覚えた。
――バカバカしい。
一体どうしたというのだろう。彼の人生は彼のものだ、自分がどれだけ乞うても、時が来れば必ず故国へと帰ってゆく。そんなのはわかりきったことだ。それなのに――いや、だからこそか――何故こんなにも胸が苦しいのか。
実際に苦しみを覚える胸元に手を当てて、風間は黙り込んだ。なにを話したら良いのかわからなかった。下手に口を開けばとんでもないことを口走ってしまいそうで怖かった。
『風間?』
滅多にない風間が作る沈黙におびえたように、孔がそっと名前を呼んだ。しばらく間を空けて気持ちを落ち着かせてから、ああ、と答えるだけで精一杯だ。
『どうした、なにかあったのか?』
「いいや、なにもない」
そう言って静かに息を吐き出す。
「大丈夫だ」
『そうか』
受話器の向こうでも、ほっとしたように息を吐く音がした。
『風間、学校が休みになったら飯を食べに来ないか』
「店にか? 構わんよ」
『違う。私のアパートに』
「君の部屋に?」
驚きで声が上ずってしまう。伝わらなければいいがと思いながら風間は呼吸を整えた。続く孔の言葉は実に素っ気無い。
『鍋を作りたい。だが鍋だけは一人で食べても楽しくない。だから今まで作らなかった。風間が来るなら作れる』
そう言って、どうだ? と聞いた。それだけの理由かと拍子抜けしたが、それでも誘ってもらえたことが嬉しくてたまらなかった。
「有り難くごちそうになるよ」
『ゴチ…?』
またいつものパターンだ。風間は苦笑して、
「今度説明するよ」
『また電話する』
「ああ。待っている」
じゃあまた、と癖のように呟いて風間は受話器を置いた。声は途切れてしまったが、今夜こそは本当に「今度」を手に入れられた。嬉しさのあまり微笑んでしまっていることを、意外にも当の本人だけが気付かない。そんな姿を周囲にさらせば、うわさになるのも当然だ。