『風間か?』
 受話器から洩れてくる孔の声は、電話線を通している為か、この前とずいぶん違って聞こえた。
『準優勝だったな。おめでとう』
「ありがとう。やはり優勝は星野に取られたよ。まあ予想はしていたが」
 夏休み中は殆どの生徒が帰省してしまっている為に、寮のなかはいつになく静かだ。ひと気のない廊下で壁に寄りかかりながら、風間はじっと孔の言葉に聴き入っていた。
『星野の才能は本物だ。必ず世界へ出る』
「私もそう思う」
 本当はそんなことよりも滞在の件がどうなったのかが知りたかったのだが、悪い結果を聞くのが怖くて、どうしても自分から話を振ることは出来なかった。
『このあいだの話だが』
 孔は唐突に話題を変えた。
「ああ」
『日本に残ることになった』
 風間は相手に聞こえないようそっと唾を飲み込んだ。そしてゆっくりと息を吐いた。
「良かったな」
 安堵に、体中の力が抜けていくようだった。受話器のコードを伸ばして、結局風間は廊下に座り込むことにした。
「金の工面はついたのか」
『クメン?』
「ああ――資金は出してもらえたのか」
 顔が見えないと、相手が日本人ではないのだということをすぐに忘れてしまう。電話では文字を見せるわけにいかないから注意しなければ。
『大丈夫だ。ユースが卒業まで出してくれることに決まった。コーチが辻堂の先生に理由を話したそうだ。そうしたら先生がユースに手紙を書いてくれて…』
「そうか。必要とされているということだな」
 今、孔は辻堂学院の卓球部で部員たちの指導にあたっているそうだ。そのお陰で、今までは見る影もなかった辻堂学院が、団体戦で上位に食い込むことが出来た。惜しくもインターハイ出場は逃したが、それが孔の功績であることは誰にも否定出来ない筈である。
 だが孔の言葉が止まった。もしもし、と言うと、ああ、と短い返事があるばかりだ。
「どうした。なにかあったのか?」
 そういえば声の調子が重いような気がする。表情が見えない分、不安が募った。
 また返事がない。
「孔?」
『…帰った方がいいのかも知れない』
「何故だ、なにがあった」
『なにもない』
 沈黙。
 風間は辛抱強く待った。
『なにもない。だが、私は時々、おかしな気になる。私が日本へ来たのはなんの為だ? 確かに辻堂の部員たちを教えるということで日本へ来た。だけどそれは本当ではない』
 ユースへの復活。目指しているのはそれだけの筈だった。
『私のような人間が、この先も卓球を続けていって、どんな意味がある』
 ユースが留学資金を打ち切りたいと言ってきた理由は一つしかない。
 ――役立たず。
「…卓球が嫌いになったか」
『いいや』
 孔は即答した。
『卓球は、好きだ。当たり前だ、私には他になにもない』
 声に力が戻ってきたのを感じて、風間は嬉しくなった。
『私から卓球を取ったら、なにも残らない。ただの人間だ』
「私は嫌いだった」
 穏やかな口調で風間は言った。
『知っている』
「そうなのか?」
『見ていたらわかる。風間は卓球を嫌っていた。とても嫌っていた』
 それが過去形で語られていることに気付いて、ふと笑みが洩れた。
「好きになれたのは星野や月本や、君のお陰だ。確かにまともに話をしたことは殆どなかったが、君たちは色々なことを教えてくれた」
 それは下手をしたら一生手に入らないままで終わっていたかも知れないほど、貴重で得難いものだった。
「私のような人間も居る。君が居ることで、多くの人間の助けになっている」
『…ああ』
「君が居る意味はある」
『………』
「…聞こえているか?」
『ああ』
 また二人のあいだに沈黙が流れたが、それは不安になるようなものとは違った。風間はいとおしむかのようにその沈黙を聞き、じっと孔の声を待った。
『ありがとう』
 やがてぽつりと呟いた。
 風間はなにも言わないまま、見える筈もないのに、小さく首を振った。
『アルバイトをすることにした』
 それまでの空気を断ち切るかのように、孔が突然元気な声を出した。
「アルバイト」
『ああ。藤沢の駅で募集の広告を出している店があった。学校が終わったあとに働く』
「そうか。大変だな」
『違う。私は金をもらう。店は人が足りる。両方バンザイだ』
「なるほど」
 孔の言い方に、思わず笑いが洩れた。
「今度食いに行こう。なんという店だ?」
『小田急の駅の方だ。店の名前は――』
 他愛もない話を続けながら、それでも来年の三月まで延期されただけに過ぎないのだと、風間は考えていた。
 卒業してしまえば、あとはわからない。
 ――何故だ?
 これほどまでに引き止めたいと思うのは、何故だ。
『記念日のプレゼントなんだが』
 ぼんやりと自分の胸のうちに想いを馳せていたので、孔がなんのことを言っているのか、咄嗟には理解出来なかった。一瞬の間ののちに、例の結婚記念日の贈り物のことだと思い至った。
『父親に怒られた』
「怒られた? 何故?」
『そんなことに金を使うなと。時計を買う金があったら服を買えと言われた』
「本心ではなかろう。きっと照れたに違いない」
『…そう思うか』
「お母さんはなんと?」
『母親は喜んでくれた。だが父親には怒られた。帰るんじゃなかった』
 電話の向こうでぺろりと舌を出す孔の姿がふと思い浮かび、風間は声を上げて笑った。そこへたまたま下の学年の寮生が通りかかり、びっくりしたように振り返った。風間はごまかすように小さく咳をしてそっぽを向いた。
「ともかく、喜んでもらえたのなら良かったではないか」
『風間のお陰だ。ありがとう』
「…なんだか、このあいだから礼ばかり言われている気がするな」
『おかしいか?』
「そうではない。なんというか――照れ臭くてな」
『テレ…?』
「今度説明するよ」
 じゃあまた、と言って電話を切ったが、「今度」がいつ来るのか、なんの保証もなくなんの約束もしていないことを思い出した。風間はしばらくのあいだ電話をみつめたまま、その場を離れることが出来なかった。


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