風間は無言で手帳を奪い、自分の名前と一連の数字を書き込んだ。
「もし決定したら連絡をもらえないか」
 手帳を押しやりながら風間は言う。
「私の寮の電話だ。誰かが出たら、風間竜一は居るかと聞いてくれればいい。夜の九時以降ならたいてい部屋に居る」
「わかった」
 孔は再びしげしげと書き込まれた数字を眺めている。
「風間は、面白い字を書く」
「そうか?」
「男の癖にやわらかい字だ。不思議だな」
 そんなことを言われたのは初めてなので、どう反応して良いのかわからなかった。困っていると、孔はいたずらっこのようににやりと笑い、
「人は見かけによらないっていうのは、本当なんだな」
「失礼な」
 憮然とした姿が面白かったらしくて、孔は初めて声を出して笑った。つられて風間も笑ってしまう。ようやく場の空気をくだけたものに出来たことが嬉しかった。
「風間、これから暇か?」
「ああ」
「具合の悪いのは治ったか?」
 日向にずっと居たお陰で立ちくらみはしていたが、それを悟られていたとは思わなかった。大丈夫だということを強調しようと、無意識のうちに力強くうなずいていた。
「買い物に付き合ってくれないか」
「構わんよ。なにを買うんだ?」
「まだ決めていない。なにを買ったらいいのかわからなくて困っている」
 来月、両親の結婚記念日なのだという。誕生日にはもらうばかりだが、どういうわけか結婚記念日にはいつも贈り物をしているのだと孔は言った。
「いい息子だな」
「違う。合理的にしているだけだ」
「……?」
「誕生日だと二人に贈らないといけない。結婚記念日なら一つで済む」
「なるほど」
 確かに合理的だと、風間は苦笑を洩らした。
 アイスコーヒーを飲み干して立ち上がった風間のあとに続きながら、「今日は部活はどうした」と今更のように孔が聞いてきた。
「休みだ。もっとも、インターハイが終わればそのまま引退だがな」
「そうか。てっきりサボったのかと思った」
「…そういう言葉は知ってるんだな」
「よく聞く言葉から先に覚える。最初の頃に知っていたのは挨拶と、バカという言葉だけだ」
 そう言って孔はおどけたように笑ってみせた。


 その後、二人は藤沢まで出て買い物を済ませた。なかなか決まらなかったが、結局飾りつきの置時計にすることにした。
「セイコーなら壊れないだろう」
 中国で作った品物は壊れやすいのだそうだ。どのみち組み立ては中国でしているから変わらないのではと思ったが、本国用と輸出用は別だと孔は言う。
「中国人に売るのは工場で駄目になったものが多い。あとはもともと作り方が悪いから、すぐに使えなくなる。他の国へ出すものは別だ。いいものを作ればそれだけ高く売れる」
「確かに」
 帰りの電車はさほど混んでおらず、四両編成の長い方の江ノ電だったので、座ることが出来た。座席に座りながらふと風間のチノパンにTシャツといういでたちを目に止めて、「学校はどうした」とまた聞いてきた。
「今日は休みだ。だから部活も休みなんだ」
 本戦前だからこそ休養は大事だといって顧問が休みにしたのだ。それでも午前中だけはどうしても落ち着かず、気を紛らわす為に体を動かしてきたのだが。
「何故休みだ?」
「創立記念日さ」
 質問を口にするよりも早く孔はバッグを探って手帳とボールペンを差し出す。風間は笑いながら文字を書き付けた。渡しながら口を開く。
「海王学園が作られた大事な日だ。昔は授業をしないかわりに式典のようなものがあったと聞くが、今ではただの休日となっている」
「学校が出来た日はどこの高校も休みなのか」
「恐らくな。それぞれ日は違うだろうが――」
 言っている最中、なにかを思い出したように孔は目を見開き、ぽんと手を打った。
「だから先月、いきなり休みになったのか。普通の日なのにおかしいと思っていたんだ」
 日本で生活していると当たり前すぎて気付かないことも、孔のような存在には全てが初めての経験となる。説明しながら風間は、人に教えるというのは自分が学ぶということなのだと、あらためて知ることになった。
「サボったわけではないぞ」
 そう言って笑った。
 電車を下りるのは風間の方が先だ。まもなく到着するというアナウンスを聞いて、風間は腰をあげた。
「今日は助かった。ありがとう」
 孔にそう言われて、風間は照れたようにうなずいた。
「今後のことが決まったら、連絡を頼む」
「わかった」
 そう言いながらも、孔はなにか納得のいかないような顔をしている。困ったようにみつめられて風間は「どうした?」と聞いてみた。
「なにか、おかしいな」
「なにがだ」
「風間とこんなふうに話をするなど、思わなかった」
 思わず苦笑が洩れた。
「私もだ」
 そしてふと右手を差し出す。孔はその手をがっしりと握り返した。
「じゃあ、また」
 ドアが開くのにあわせて風間は呟き、手を離した。軽く手を上げて応えた孔に微笑み返して、風間は昼間の暑さが残る外界へと足を踏み出した。切符を運転手に渡すと扉が閉まり、電車が動き出す。改札口で立ち止まって何気なく孔の姿を探すが、彼が振り返ることはなかった。
 生温い空気のなかで立ち尽くした風間は、そっと右手を握りしめて、ゆっくりとした歩調で寮へ向かって歩き始めたのだった。


 インターハイの開催期間はおおよそ三週間あまり。だが一つ一つの競技が行われるのはそれほど長くない。八月十二日には男子卓球シングルスの決勝戦が行われた。優勝はペコ、そして準優勝は風間だ。二年連続で立った一位の表彰台をゆずることになったが、風間は満足だった。
 閉会式に参加した翌日、飛行機で住み慣れた古巣へと戻った。部屋に入って荷物を置き、イスに腰をおろした時、これで本当に終わったのだという強い感動が胸を打った。部活からの正式引退は九月一日。当然卓球を辞めるわけではないが、少なくとももう海王の看板を背負って立つ必要はなくなったのだ。
 自由でもあり、物寂しくもある。
 だがこれは終わりではない。風間は自分に言い聞かせる。次へと進む為の、一時的な空白に過ぎないのだ、と。
 誰も居ない静かな部屋のなかで、風間は一人、淋しい自由をじっくりと味わっていた。
 孔から電話があったのはその夜のことだった。


back シリーズ小説入口へ next