恐らく彼が目指していたのはインターハイでの上位入賞。出来ることなら優勝し、日本一となり、本国への復活を目論んでいた筈だ。その目論見を最初の年に蹴落とした自分がそんなことを気にするなど、孔にとっては有り難迷惑以上のものがあるだろうに。
――つくづく配慮が足りないな、私は。
聞いてしまったのだから仕方ないが。
簡単に答えが手に入るものと思っていたが、孔の沈黙は長かった。探るように見返すと、ふとまぶたを伏せて「まだわからない」とだけ呟いた。
「卒業までは残るのだろう?」
留学生として辻堂学院に入って一年と少し。三年生の今であれば、普通は卒業まで待つ筈だ。中国の教育制度がどういうものかは知らないが、日本の感覚でいえばそうなる。だが孔の暗い表情は変わらなかった。
「ユースから連絡があった」
「どんな?」
「夏休みのあいだに、上海へ帰る」
「また戻ってくるのだろう?」
孔は首を振る。
「留学の資金を打ち切られる。まだ決まってないが、もしそうなったら、私の家ではもう私を日本に置いておく余裕は無い」
グラスに伸ばした手が止まった。
もしかしたらと予測していた悪い方の事態だ。もしそれが実行されれば、会えないまま別れることになる。それはぜひとも避けたかった。今日を除いてここへ来る余裕は無かった。だから長い逡巡を乗り越えて、あの炎天下、孔を待ち続けたのだ。
風間は喉の奥になにか固いものを感じた。無理やり唾と共に飲み下し、そのあとでアイスコーヒーの存在を思い出した。目の前にあるのに。
「そうか…」
目の前にあるのに、どことなく存在が薄い。孔の姿もどこか遠くにあるように感じられて、だが自分がしてやれることはなにもないのだと、何度も繰り返した自分に対する否定を、風間はまた繰り返した。
彼の未来を奪ったのは、自分だ。
やはり来るべきではなかった。深い後悔を噛みしめるように風間はコーヒーを飲んだ。
孔は窓にかけられた薄いカーテンの向こう側をすかし見ている。直射日光はもう射さないようだが、孔の瞳はわずかにまぶしそうに細められていた。つられて視線を移した風間は、彼は今この風景を目に焼き付けているのだろうかと考えた。二度と訪れることのない、思い出の地としての風景を。
「なにか私に出来ることはないかな」
そう言うと、孔は驚いたように振り返った。
「何故だ」
「なにが?」
「何故、風間がそんなことを言う。これは私の問題だ、風間には関係ない」
別にわざときつい言い方をしているのではないのだとわかっているが、それでも実際言われてみると予想外にこたえた。そして確かに孔の言う通りだと、反論の出来ない自分にも気付いた。
なにか上手い言い方はないかと探してみたが、気の利いたお世辞も冗談も生まれてこの方吐いたことのないこの口は、とてもじゃないがうわっついた馴れ馴れしさを発言することは許してくれそうになかった。素直に自分の気持ちを話すしかない。
「確かにそれは君の問題だ。だが私と君は全く知らない仲ではない」
理解出来ているかどうかを確かめる為に、風間は一旦言葉を切った。少し遅れてからうなずいた孔の姿に安堵し、風間は言葉を続ける。
「共にあの厳しい予選を戦った者同士、なんというか…戦友、とでもいうべきか」
「センユウ?」
単語にひっかかったようだ。あわてて説明を試みようとした風間を孔が制し、荷物のなかから手帳とボールペンを取り出して風間に押しやった。
「書いてくれ。だいたいの意味はわかる」
うなずいて手帳を開くと、あちこちに短い単語が殴り書きされていた。筆跡も色々だ。恐らくこの手帳を使っていろんな人とのコミュニケーションを図ってきたのだろう。
中国から伝わった漢字文化のお陰で、こうしてなんとか意思疎通を図ることは出来る。だがそれでも、ちょっとでも難しい話になれば理解する為の時間は爆発的に増えるに違いない。異国の地でたった一人きり、孤独で居続けるよりは、もしかしたら上海に戻った方が彼の為なのかも知れないな…文字を書き込みながら風間はふと思った。
でも、だったら何故、彼を日本に引き止めたいと思うのだろう?
「――なんと読んだか」
「せんゆう、だ。わかるか?」
孔はうなずいて手帳の文字をみつめている。
「君のような優秀な人材を失うのは惜しい。辻堂学院の方からなにか援助はないのか」
「それは、ある。学校の費用は辻堂が全部出してくれている。呼ばれた形だからそれは最初から決まっていた。問題なのは生活する金だ」
そう言うと孔は手帳の空き部分に円を描いて半分に割り、更に片方をもう半分に割って、四分の一の片側に「辻堂」残りの四分の一に「我」、そして半円に「上海」と書いた。
「辻堂が生活の為の金を少し出してくれている。これは返さなくていいそうだ。ただし卒業するまでのあいだだけ。あと同じだけ私の家が出している。問題はユースが出している部分だ」
「上海」の文字をボールペンでぐりぐりと何度も囲ってみせる。
「充分な活躍が出来なかった私に、大金は払えないと言われた」
「…ひどい話だな」
インハイ予選も済んで、用済みならとっとと本国へ戻って来いということか。だが孔は苦笑して、
「仕方がない。一回戦で負けるような腑抜けだからな、私は」
ペコとの試合のことを言っているのだろう。だがペコは風間ですら倒した男だ。タイミングが悪かったというだけで、孔を責める筋合いはないのではなかろうか。そう言うと、孔は小さく首を振った。
「運も実力だ。結局私に力がなかっただけだ」
「――ユースに戻るのか」
風間の言葉に、孔は再び首を振る。
「私はもうユースの人間ではない。ただの、卓球が好きな、普通の人間だ」
チームの所属でもない選手に大金を払うのは痛い。確かに道理だ。戻ってこいというのもうなずける。だが孔にはまだ高校生活が残っている。それを途中で放り出せというのは、あまりにも酷ではないか。
「残る方法はある」
ぽつりと孔が呟いた。風間ははっとしたように顔を上げた。
「簡単だ。ユースの分を、私の家が出せばいい」
「しかし…」
風間の否定に、孔はうなずいた。
「私の家に、そんな余裕は無い。戻るのが一番だ」
そう言って投げ遣りにボールペンを放り出す。おどけて両手をひらひらとさせ笑ってみせるが、お手上げ、ということなのだろう。
「…なにか、私に手伝えることはないか」
そんなことはなにもないとわかっていても、言わずにはおれなかった。
「風間が気にすることではない。これは私の問題だ」
「だが私は」
「さっきもしたな、この話」
手帳に書かれた「戦友」の文字を指でつついて孔は笑う。風間は言葉を失って、そうだな、と小さく呟き、微笑んだ。
――君の未来を奪ったのは、私でもある。
「まだ決まったわけではない。ユースで世話になったコーチが居るが、その人が上に働きかけてくれている」
「予選に来ていたあの人か?」
「ああ。留学を勧めてくれたのもその人だ」
ふっと孔の表情がやわらいだ。よほど親しい間柄なのだろう。軽い嫉妬を覚え、そんな自分に愕然としながら、動揺を悟られまいと風間はグラスをつかんだ。
「どうなるかは、まだわからない。コーチは『望みを捨てるな』と言ってくれた」
「頼りになる人なんだな」
「ああ」
屈託のない笑顔を見るのが辛かった。孔が日本に残れるならそれは喜ばしいことの筈なのに、何故そう感じるのか、風間は自分でもわからなかった。