夏の日盛りに、日向で人を待つことの愚かさはわかっていた筈だった。
だから風間は街路樹が作る奇跡のような木陰にその身をひそめ、ガードレールに腰をおろして辛抱強くその人が現われるのを待った。
ただ計算に入れなかったのは、時間によって木陰の向きが移動するという、地球が動いていれば当たり前に起こる現象で、しかも学校前の歩道に街路樹以外のどんな障害物があるというのだろう? 結局風間は足元だけを無理やり木陰に突っ込み、殆ど意味をなさない避暑に甘んじながら、それでも辛抱強く尋ね人を待つのだった。
時折目の前を通り過ぎる人影が、風間の坊主頭を一瞥してはそそくさと目をそらせてゆくのがひどく気になった。
――そんなにこの格好はおかしいのか。
坊主頭は確かに珍しいが、なにより眉毛もない彼の、年に似合わぬいかつい顔つきは、下手をしなくても組関係者に見える。そんな人物が学校の正門近くで二時間以上も居座ったまま動かないのだ。誰に因縁をつけに来たのだと、あらぬ疑いを抱かれても仕方があるまい。体育教師が出てこなかっただけマシだろう。
自販機で購入した飲み物を片手に、流れ落ちる汗をしきりに拭いていると、やがて正門から大勢の生徒たちが吐き出され始めた。そろそろ出てくるかと、じいっと生徒たちの顔を眺めていると、やはり彼らも風間の視線に気付くと恐れをなしたように一様にうつむいてしまう。
――やはりおかしいのか。
おかしい、といえば、そもそも下校時刻のずっと前からこんなふうに待ち伏せしている自分が一番おかしい、と思い、風間はふと苦笑した。そして気付く。
――まさか部活が。
ないとはいえない。
自分は夏休み中のインターハイに出場するから当然部活には参加しているが、基本的には六月のインハイ予選が終了した段階で三年生は引退する。だがそれはもしかすると海王だけの決まりで、他もそうとは限らないのだ。
そんな基本的なことに思い至らなかった自分の甘さに嘆息し、また更にこれから二時間も待たなければならないわが身を振り返り、出てくるのは本当に本当に深いため息だけだった。
それでも自分は待つだろう。気合いを入れるかのように生温くなったペットボトル入りのお茶を飲み干して、そうでなければとうの昔に帰っている、だろう? と自分に問いかけた。
せっかくの休みなのだ、有意義に過ごす手段は幾らでもある。だが風間はここへ来た。今日でなければ駄目なのだ。自分は彼の自宅を知らないし、ここで捕まえられないままインターハイが終了するまで後回しにしていたら、二度と会えなくなる可能性がある。
勿論それでも風間は迷った。本戦前の大事な時期だ。予選では例の片瀬の二人組みに上位を奪われ、無敗のドラゴンの異名をとうとう失ってしまった。だが自分はそれ以上のものを手に入れられた、と思っている。だから本戦で再びあの二人のどちらかと戦うのが楽しみだった。その為には腕を磨かなければならない。奴らはどんどん高いところへと飛んでいくだろう。うっかりしていたら簡単に置いていかれる。
それでも、だ。
やはり彼はここへ来た。どうしても確かめておかなければならないことがある。それは高校最後のインターハイ出場よりも大事なことだった。――少なくとも、今の彼にとっては。
空になったペットボトルを指にはさんでぶらぶらと揺らしながら、既に道路側へと移動を済ませた街路樹の影をうらめしそうに一瞥し、流れ落ちる汗を無理やりぬぐった時、奇跡のようにその人は姿を現した。
正門そばの真日向のガードレールに腰をおろした風間を、最初は他の生徒たちと同じようにちらりと一瞥しただけで通り過ぎようとした。だが見覚えのある顔だと思い出したのか、風間が声をかけるよりも早くその人は足を止めて驚いたように振り返った。
「風間!?」
「やあ」
立ち上がろうとしながらふと軽いめまいを覚え、結局元通りガードレールに腰をおろして風間は軽く手を上げてみせる。
「なにをしている、こんな所で。日光浴か?」
「上海では道端で日光浴するのが流行りなのか」
「そんなわけない。日本の習慣なのかと思っただけだ」
そう言って孔は訝しげに風間の姿を見下ろす。
「君に会いに来たんだ」
「私に」
「そう。少し聞きたいことがあってな。とりあえずどこか涼しいところに入らないか」
誘いをかけるというより、半分以上音をあげるような恰好で風間は孔に笑いかけた。全身汗だくの姿を見て拒否出来ないと思ったのだろう、孔は素直にうなずいた。
「いつから待ってた」
「…それほど前じゃないさ」
見栄を張るのは男として当然だろう。
エアコンが程よく効いた店内に足を踏み入れた瞬間、風間は全身が凍りつくかと思わず身をすくめた。汗で濡れた肌に吹き付ける風は凍えるほどに感じられた。下手をしたら風邪を引くな、と内心舌打ちをする。だが涼しいところといって手頃な店がこの喫茶店しかないのだから仕方がない。
ウェイトレスに案内されてイスに腰をおろした風間は、迷うことなくおしぼりで顔面を拭いた。ついでに頭の後ろと首筋をぬぐってから、はしたない行為だったかとうかがうように孔を見たが、彼は早々メニューに視線を落としていたので目撃されずに済んだようだ。
「私はアイスコーヒーにしよう」
おしぼりをテーブルに戻して、メニューも見ずに風間は言った。
「私も、アイスコーヒー」
通りがかったウェイトレスに注文を済ませて振り返ると、それでも孔はまだしげしげとメニューを眺めている。
「他のが良かったか?」
「違う」
そう言って孔はぱたりとメニューをテーブルに広げた。
「写真と品目を見ている。名前を知っていても、食べたことがないものが多い」
言われてのぞきこむと、確かに食事メニューの脇には見本として料理の写真がついている。
「文字ばかりだと、よくわからない」
「なるほど。――外食はよくするのか」
少し考え込んだあと、孔は首を振った。答えるのを迷っているというよりも言葉の意味を解釈するのに時間がかかっているようだ。
「家で料理する」
「ほお」
「材料を買う方が安い。コンビニは楽だけど、金がかかる」
「確かにな。独り暮らしだといろいろ大変だろう」
「もっと金があれば楽になる」
食事を作るのが一番面倒だと言った。
「掃除や洗濯も自分でするのか」
「当たり前だ。――風間は私の生活を調べているのか?」
不思議そうに見返されて、風間はあわてた。勿論そんなことが聞きたいわけじゃない。動揺をごまかすように水を飲むとあらためて孔をみつめたが、真っ黒なビー玉のような目でしっかとみつめ返されて、風間はそれまで抱き続けてきた決意が不意にゆるむのを感じた。
だがここであきらめては、あの灼熱地獄を耐え抜いた意味がない。再び水を飲み、「実は…」と口を開きかけた時、
「お待たせいたしました」
狙っていたかのようにウェイトレスが二人の脇に姿を現し、紙で出来たコースターを敷き、アイスコーヒーのグラスを二つ並べた。
「ごゆっくりどうぞ」
わずかながら怒りすら覚えながら風間はガムシロップに手を伸ばす。
「君が、いつまで日本に残るのかと思ってな」
ようやく肝心の質問を口にすると、一気に安堵感が突き抜けた。この一言を実際口にするまでにどれほど長い逡巡があっただろう。考えてみれば昨晩は、この瞬間のことが気になって気になって、結局殆ど眠っていないのだ。立ちくらみは睡眠不足のせいもあるのだろう。
たかがこんな質問ごときでこれほどまでに動揺したりする自分が、風間は本当に情けなくて仕方がなかった。そもそも何故そんなことが気になるのか、自分でも良くわかっていないのだ。ただインハイ予選が終了したあと、仲間の引退を目の当たりにしながら、そういえば孔はどうするんだろうと思ったのがきっかけだった。