ベッドに寄りかかり、スマイルの寝顔をみつめながら、そういえばなんで家に来るのか聞いたことがないなと孔は考える。
 初めて孔のアパートに泊まって以来、週に一度か二度は訪ねてくるようになった。時には閉店まで働くこともあり、日付けが変わる頃に帰るような日でも、スマイルはじっと部屋の外で待っていた。電話を入れろと言ってあるのに、確認して泊まりに来るようなことはしない。気が向いた時にぶらりとやってきて、居なければ居ないで、孔が帰るまで辛抱強く待つのだった。
 あまりに待たせることが多かったので、合鍵を作って渡してやった。そうしたら今度はベッドで眠って待つようになった。明かりがついているとたいていスマイルが眠っている。そんなに寝心地がいいのかと聞いたら、「まあね」と笑ってごまかされた。
 ――お前はどうしたいんだ、月本?
 俺に出来ることはなんなんだ?
 不意にスマイルが目を開けた。孔は驚いて息を呑む。焦点の定まらない目がじっと孔の顔をみつめている。
 色素の薄い茶色の瞳は、きちんとものが見えているのか、時々不安になることがある。探るように見返すと、
「お帰り」
 存外しっかりとした声でそう言って、そっと孔の首に手を伸ばした。
「月本は、私のベッドが好きだな」
「…なんか、落ち着くんだ」
「そうか?」
 前と同じように孔はベッドに顔を伏せて、スマイルの瞳をみつめた。
「匂いが――」
「匂い?」
 スマイルは小さくうなずいた。
「…なんとなく、落ち着く。そういう匂い」
「――お前の、前の男と似ているのか」
 そう言うと、スマイルは顔をひきつらせて孔を見た。首に回していた手をそろそろと離し、ベッドの上に伏せる。
「…なんだよ、それ」
「違うのか」
 孔は小さく笑い、
「そうだと思っていた。月本はいつもベッドに居る。そこが好きなんだろう?」
「…好きは、好き、だけど」
 スマイルは今更のように目をこすりながら体を起こした。毛布にくるまったまま、床に座り込む孔の姿を、戸惑ったようにみつめている。どうした? と問いかけるように孔が首をかしげると、スマイルは不意にうつむいて、
「…背中が、」
 ぽつりと呟いた。
「背中?」
「……似てるんだよ。腕回した時とか、びっくりするぐらい」
「そうか」
「こう…背格好とかがさ」
「そうか。だけど、私はその人ではない」
 そう言うと、スマイルは顔を上げて、むくれたように孔をみつめた。
「なんだよ、それ」
 孔は黙ったままスマイルの言葉を待っている。
「この前の仕返し?」
「……」
「…迷惑なら、そう言えば良かっただろ」
 スマイルはベッドを抜け出して毛布を放り投げた。そうして棚のメガネを取り上げて、
「わかったよ。もう来ないよ」
「違う、来たければいつでも来い」
 そう言った孔を訝しげに振り返った。
「いつでも来い、月本。ベッドで好きなだけ寝ろ」
「……」
「だけど忘れるな。私は、その人とは、違う」
 ――あの頃の俺は、
 言葉を失って立ち尽くすスマイルを見上げながら、孔は思う。
 ――あの頃の俺は、自分を止めてくれるものが欲しかった。
 奪ったり奪われたりするだけではなく、相手の心がわからなくて不安になって傷つけあうだけではない、きちんとした考えを持てるようになりたかった。余裕が欲しかった。だけど風間はただやさしくて、どこまで踏み込んでいいのか、誰も教えてくれなかった。
 あの頃の自分に、今、出来ることはなんだ。
「私は、その人ではない」
 これもまた傷つけることになるのかも知れない。それでも、
『もう来るな』
 きっとほかのやり方が、どこかにある筈だ。
「……わかってるよ」
 噛みしめた唇の隙間から、そっとスマイルが言葉を吐いた。
「わかってたよ、そんなこと…!」
 そう言ってまた唇を噛みしめて、不意に涙をこぼした。両手を強く握り、目をきつくつむり、嗚咽を殺して肩を震わせながら泣いた。孔が誘うように手を握ったがスマイルはそれを振り払い、立ち尽くしたまま泣き続けた。
 ――ようやく泣いたな。
 静かに泣き続けるスマイルを見上げながら、孔はぼんやりと思った。
 スマイルはいつも泣くのを我慢していた。奥歯を噛みしめて、なにか言いたいことがあるのにそれを押し殺して、そうしながら、いつだって誰かにすがりついて泣きたそうにしていた。
 孔がもう一度腕を引くと、スマイルはゆっくりとしゃがみこんできた。そうして孔の首に両手をかけて、かすかにうめくようにして声を上げながら、静かに泣いた。孔は背中に腕を回して、そっと撫でた。広い背中を撫でながら、まるで子供をあやしているみたいだと、孔は思った。


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