スマイルのキスが止まない。
真っ暗ななかでベッドに向かい合って横になり、お互いの体に手をかけて眠ろうとしていた筈なのに、スマイルは孔の体をぎゅうと抱きしめては何度も唇を重ねてくる。時にもどかしげに舌が入り込んでくるくせに、かすかに絡め合いながらもスマイルの唇は離れてゆく。
そうして、またキスをする。
なだめるように孔が髪を撫でると、ふと動きを止めて、暗がりのなかでじっと孔の顔をみつめてきた。あの茶色の瞳で、しかもメガネをしていない状態で、一体どれだけ見えているのかは疑問だったが、孔もじっとその目を見返して微笑みながら髪を撫でる。
また唇が重ねられた。
「孔」
唇を離して、ふとスマイルが名前を呼んだ。
「なんだ?」
「……」
なにも言わないままスマイルは孔の体を抱きしめる。
――誰を想っているのやら。
身代わりも、案外悪くないなと孔は思った。
「前の人――」
そう呟いて、スマイルは言葉を止める。スマイルの腕から逃れてそっと顔を上げ、「なんだ?」ともう一度孔は聞いた。
「…今、どうしてるか、知ってるの?」
「…さあな」
うそだった。雑誌を開くと、たまに風間の記事を見かけることがあった。最近、どこかの実業団に所属が決まったと書いてあった。相変わらず卓球は続けているようだ。
「いつ別れたの?」
「…一年前だ。九月」
「そう…」
また孔の体を抱きしめて、
「元気だといいね」
「そうだな…」
不意に鼻先を懐かしい匂いが通り過ぎた。孔の脳裏に雨上がりの夜道の情景が思い浮かび、
――ああ、そうか。
やっとスマイルの匂いがなんなのかがわかった。
「月本は、雨の匂いなんだな」
「え?」
スマイルが顔を上げた。孔はまた髪を撫で始め、
「お前は雨のあとの匂いだ。どこかで覚えている匂いだった、だけど思い出せなかった。やっとわかった」
「…あんまり、いい匂いじゃない気がする」
「違う」
そっと唇を重ねた。
「雨はいいものだ。植物を育てる。人が生きるのに、必要だ。大切なものだ」
「……」
またキスの嵐が始まった。性急に求められることはたびたびあったが、こんなふうに想いをかけて抱きしめられたのは初めてだった。
「孔」
また名前を呼ばれた。返事をしないで顔を上げると、
「…好きだよ」
ためらいがちにそう呟いた。
「ありがとう」
孔はそっとスマイルの頬を撫でて、
「いい言葉だな、それは」
「そう…?」
「ああ。何度言われても気持ちがいい。心にまっすぐ入ってくる」
「中国語だと、なんて言うの」
「(ウォアイニィ/愛している)」
呟いて、孔は唇を重ねた。風間には一度も言わないままだったなと思いながら。
――言えば良かったな。
唇を離すと、もごもごとスマイルがなにかを呟いた。
「なんだ」
「…もっと、気持ち良くならない? って、聞いたの」
そう言って恥ずかしそうにうつむいた。
あらためて確認されるとこんなにも気恥ずかしいものだとは思わなかった。それでも孔は小さく笑って、
「頼む」
また唇を重ねた。
握りしめた手がひどく熱い。抱きかかえられた肩を、もっと痛いほど握ってくれと思うのは何故なのか。
「あ…っん、は…あ…!」
スマイルのものがひどくゆっくりと、まるでこすれあうその感触をじっくりと味わうかのように、孔のなかを出入りしている。それがひどくもどかしくて、それでいてたまらなく快感を覚え、嫌々をするように孔は何度も首をふり、甘い悲鳴を洩らした。
「孔」
スマイルの熱っぽい声が何度も耳元でささやいた。そうされるたびに背筋を悪寒にも似たなにかが走り抜け、たまらなくなって孔はスマイルの首筋に爪を立てる。
「あん…っ、…っあ、あ…っ」
「好きだよ」
言われるたびに体のなかで熱が上がる。
――もう言うな。
歓喜と苦痛のなかで孔は思う。嬉しくて体は悦びに泣き、悲しくてふと涙がこぼれ落ちる。
「…どうしよう」
深く孔に突き上げながら、スマイルが呟いた。
「え…」
「すごい気持ちいいんだけど…」
そう言って照れたように唇を重ねて、孔の舌をまさぐった。すがるようにスマイルの首にしがみついて、孔も舌を絡め返す。
「私、もだ…あっ」
また熱が上がった。
「あ…っ、あ…ん、ん…!」
「もっと気持ちよくしてあげるよ」
そう言って肩に回していた手を離し、不意に孔の片足を抱え上げた。そうして深く突き上げ始めた。
「あんっ、あ…! …っは、あ…っ、あん!」
「孔…」
「や…っあ、あん…! あ…ん!」
自由にならない片手がもどかしい。逃げるように腕を引き、そうしておきながらも、スマイルの手を痛いほどに握りしめて、言葉にならない想いを伝えようとする。
「あんっ! あ…あっ、はぁ…! あん…っ」
もっと縛りつけてくれとも思う。ほかになにも見えないほどスマイルだけに夢中になれたらどれほど楽でいいだろう。歓喜のなかに溺れてなにも考えずにいられたら――だが、スマイルを好きだと思い、好きだと言われて喜びを覚えながらも、心のなかでは別の誰かのことを考えている。
「あっ! あっ…あん! やっ、…あ…ぁっ!」
「孔」
名前を呼ばれるたびに、
――違う。
そう思ってしまう自分が憎い。
「孔…」
「は…あぁ…っ、あ…! あん…!」
「孔、好きだよ」
嬉しいのに。
嬉しくてたまらないのに。
「つきも、と…あ…っ、あ…!」
「もっと欲しい…?」
「欲しい…もっと、もっと…あ…ぁっ!」
「いいよ…」
握りしめていた手を離され、両足を抱えられた。そうしてスマイルは激しく腰を打ち付け始める。
「あ! あんっ、あっ! あん…っ、はぁっ!」
あまりの快楽の深さに、孔は思わず背中をのけぞらせた。そうして両手でシーツを握りしめて、体の奥の熱だけに意識を集中させる。肉がこすれあうたびに信じられないほど強い快感が全身を突き抜け、敏感な一点を強く刺激する。流れる涙が悦びの為なのか悲しみの為なのか、もはや自分でもわからない。
「や…あっ、あんっ! も…っ、あ…っ!」
「イキそう…?」
暗闇のなかで孔はうなずいたが、勿論見える筈がない。激しく腰を使いながらスマイルは顔を近づけ、慰めるように孔の髪を撫でる。その首にしがみつきながら孔はひたすらあえぎ声を洩らし続けた。
「ね、イキそう?」
「イ…ク、も…駄目…っ、あ…っ、あっ!」
「じゃ、一緒にイこ…」
そうして全てを振り絞るかのように際限なくスマイルは腰を打ち付ける。もはや声はかすれ、孔はただ逃げ場を求めるかのようにスマイルの背中にしがみつき、必死になって爪を立てる。ガリ、と爪が皮膚を破る感触がありながら、どうすることも出来なかった。
「あんっ! …っあ、あん…! はっ…あ…っ、あ…っ!」
「……っ」
熱を吐き出した瞬間、目の前が真っ白になり、スマイルの背中にしがみつきながらも孔は意識を失いかける。嗄れた喉の奥で涙を飲み込みながら、ふとスマイルの腕に痛いほど抱きしめられ、雨の匂いを強くかいだ。
雨上がりの、きれいに晴れ渡った空が不意に見えた。満月に少しだけ欠けた月が空にかかり、青白い光を大地に向けて皓々と放ちながら、それはどこか寂しくて、また孔は泣いた。
−悲しい匂い 了−