その晩はスマイルの腕に抱かれて静かに眠った。眠りながらも、どこか意識が現実のなかをさまよい歩いているようなおかしな感じがあって、夜中に何度も目が醒めた。
目を開けると静かな寝息が聞こえてきた。目を閉じれば、それが風間だと錯覚してしまいそうで、孔は怖くてなかなか目を閉じることが出来なかった。
店のカウンターに寄りかかりながらあくびを噛み殺していると、後ろから不意にお盆で頭をはたかれた。
「だっ」
呟きを洩らして孔が振り返ると、夏がにやにや笑いながらお盆を振りかざしていた。
「夕べは彼女とお楽しみですか?」
「んなわけあるか。ただの寝不足だよ」
「ほぉ。ただの寝不足ねぇ」
「だいたい俺、彼女なんか居ねぇし」
ランチが終わると店は驚くほど静かになる。三時までは一応店を開けておくが、それから五時までは一旦閉店する。厨房の人間と一緒に遅い昼食を取り、孔は解放される。今度は辻堂へ行って部活の指導だ。
夏は去年の今頃、大学院へ入る為の試験を済ませて店に戻ってきた。とりあえず無事に合格出来たようで、さすがに勉強が大変だと文句を言いながらも、相変わらず孔を飲みに誘う。代わりに今年の六月一杯で林が店を辞めた。高校三年生となった林が、受験の順番になったのだ。
「誰か泊まりに来てるって言わなかったっけ」
棚を整理しながら夏が言った。
「…友達だよ。女じゃない」
そう、確かに女じゃない。スマイルは女性ではないし、そもそも、
――ヤラれてるのは俺の方だ。
ふきんを洗いながら孔は苦笑する。
風間が相手でなくても、それでも触られれば欲情してしまう自分の体が恨めしいと、最近は思うことが多い。結局は誰でもいいのかと悩む時もあった。
だがそれは、少し違う。別に自分を男好きだとは思わないし、いつだって考えるのは風間のことばかりだ。
スマイルの腕のなかにあっても、風間との相違を探し、どこか似ているところはないかと思ってしまう。
『どうやったら、忘れられるかと思って』
あいつは誰を忘れようとしているんだろう。俺に、誰を見ているんだろう。
別に嫉妬しているわけではなかった。どのみちお互い様でつながっているだけの間柄だ。こんな関係こそ、きっと長続きはしない。どちらかが潰れるまで相手にすがりつくか、あるいは――以前の自分がそうしたように――どちらかが相手を突き放すか、どっちみち、嫌な終わり方しか見えてこない。
――やっぱり、俺が突き放すしかないんだろうか。
風間との時とは立場が逆転している。あの当時、自分は風間にすがりついて、そうしながらも早く見捨ててくれないかとしきりに願っていた。やさしくされればされるほど、強くしがみついてしまう自分が怖くて、歯止めをかけてくれるなにかが欲しいと思っていた。
俺はどうしたかったんだろう?
――月本はどうしたいんだろう。
「なぁ」
ふきんをしぼりながら、ふと孔は夏に声をかけた。
「夏はさ、女と別れる時って、どうしてた?」
「なっ…に、いきなり言い出すかと思えば」
「いいじゃん。後学の為に教えてくれよ、学者先生」
そうして中国語で喋りあう二人を、店に残る客は少し面白そうに眺めている。最近ではこんなふうに見られることにも慣れてきた。結局は少し違和感があるだけで、日本人はたいして気にしていないということがわかった。昔は少し自意識過剰だったのだろう。
「…そんな、教えるほど経験もないしなぁ」
「そっかぁ? 意外と隠れて遊んでんじゃねえの」
「とかなんとか言いながら、自分の方こそ、今の女と別れたいんじゃねえのか」
「だから女じゃないって」
「どうだかなぁ」
そう言って夏はけらけらと笑う。
「まあ…今度、飲みにでも行った時にな。あんまりしらふで話すことでもないだろ」
ふと寂しそうな笑顔になって、夏が言った。孔は少し考え込んだのち、「そうだな」とうなずき返す。
誰にとっても容易なことではないのだ。自分もスマイルも、苦しいのは当然だ。
でも、だからといって、お互いを傷つけあっていいわけじゃない。
少なくとも自分と同じ目には遭わせたくない。孔が思うのはそれだけだ。たったそれだけのことが、こんなにも難しいのだ。