動揺を隠す為に孔は缶に手を伸ばし、底に残っていたビールを飲み干した。だがスマイルの追究は止まらなかった。
「僕が初めてじゃないだろ? 慣れてるもんね。前の人はやさしかった?」
「…月本!」
 孔はスマイルの腕から逃れて立ち上がると同時に、手のなかの空き缶を握りつぶしてスマイルに投げつけた。
「月本、帰れ」
 そう言って玄関を指で指し示す。
「雨は止んだ。歩いて帰る」
「……」
 だがスマイルは動かなかった。空き缶を投げつけられたまま、じっとうつむいている。やがて手を伸ばして空き缶を拾い、テーブルに置いた。孔は怒りに震える手で煙草のパッケージを取ると、一本取り出して口にくわえ、火をつけて立て続けに吸い込んだ。
 重たい沈黙のなか、孔が煙草を吸う音だけが続いている。
「…ごめん」
 ぽつりとスマイルが呟いた。
 孔は落ちかかった灰を灰皿に叩き落すと、そのまま床に置いて、スマイルの手の届かない位置へと座り込んだ。うつむいたままのスマイルの姿をじっとみつめて、なにをやってるんだ俺たちはと、ふと悲しくなる。
「聞いて、どうする」
 新しい煙草に火をつけて孔は聞いた。うかがうようにそっとスマイルは顔を上げて孔をみつめ、すぐに視線をそらせてしまう。
「…どうやったら、忘れられるのかと思って」
 ――そんなもの、
 孔はまた怒りと共にスマイルをみつめた。
 ――俺が聞きたいぐらいだ。
 わざとらしく大きな吐き音を立てて孔は煙を吐き出した。
 何故自分がこんなにも怒りを覚えるのか、それすらもわからなかった。思いがけないスマイルの質問に、心のなかにわだかまっていたものを掻き立てられ、思っていた以上に自分がまだ風間の存在に(風間の不在に、と言うべきか)固執していたことを思い知らされた。
 会いたいと、ふと思う。
「…どれぐらい付き合ってた?」
 恐る恐るといったふうにスマイルは顔を上げて、小さく聞いてきた。孔はしばらくためらったあと、
「半年だ」
 そう答えた。
「その前から知り合いではあった。…友達だった」
 仲のいい友達だった。
「どっちが先に告白したの?」
「こく…?」
「どっちが、先に好きだって言った?」
「――向こうだ」
『今…私の、目の前に居る』
「…孔は、好きだって言われて、どうだった…?」
「……」
 孔は煙草を持ったままぼんやりと床に視線を落とした。
 どうだったんだろう。戸惑いはあったが、正直、素直に嬉しかった。お互い、そうとは知らないまま気持ちを探り合って、遠慮しながらも徐々に近付きあおうとしていたところはあった。
 言ってしまえば自分が男に惚れるなど考えてもみなかった。それまでも特に誰か好きになったことはないし、そもそも女とすら付き合ったことがない。だから余計に舞い上がった部分もあると思う。
 それでも風間の腕はやさしくて、あの落ち着いた声は気持ちよくて、これがなくなっても俺は生きていけるんだろうかと何度も思い――不安になり、どうせ失うなら自分から捨ててしまえと、バカなことを考えたのだ。
『もう来るな』
 絶対に、ほかにやり方があった筈だ。後悔して思い出すのは、いつもあの朝のことばかり。
「孔?」
 スマイルの声に顔を上げると、煙草は殆ど燃え尽きていた。あわてて灰皿に突っ込んでもみ消した。
「最初は、困った。向こうは男だ、私も男だ。それに、友達だった。よく酒を飲んだ。どうしたらいいのか、わからなかった。だからなにも言わなかった」
 スマイルはじっと孔の言葉に耳を澄ませている。
「電話がなくなった。私も電話をしなくなった。会わなければ困らない、そう思った。…だけど、友達だ。会いたくなった。だから電話をした」
『飯を、食べに来ないか』
「すぐに来た?」
「…来た。私を、好きだと言った。…嬉しかった」
 何故素直にならなかったのだろう。何故素直に風間の心を受け入れなかったのだろう。もともと失うものなどなにもなかった筈だ。求めればいくらでもそばに居てくれた。
 怖いぐらいに風間はやさしくて、そのやさしさに返せるものをなにも持たない自分が、あまりに卑小で、情けなかった。そんなミジメな自分を見るのが嫌になっただけだ。そうだ、俺は風間が怖かったんじゃない、ただ自分の不甲斐無さを直視出来なかっただけだ。
 嫌いになったわけじゃないんだ、迷惑だった筈がない、今だって会えるものなら…会いたくて、たまらないのに。
 ふと気付くと、目の前にスマイルが立っていた。そうして恐々と腰をおろして顔をのぞきこんでくる。そっと伸ばされた手が頬に触れた。その時初めて孔は、自分が泣いていることに気が付いた。
「ごめんね…」
 ぽつりとスマイルが呟いた。
 泣き顔を見られるのが恥ずかしくて孔はうつむいた。嗚咽を噛み殺して、しばらく泣いた。スマイルはそっと孔を抱き寄せて、ゆっくりと頭を撫でる。
 抱き寄せられた胸のなかは温かくて、頭を撫でる手はやさしいものなのに、それでもどうして風間の腕が恋しいと思ってしまうのか、孔にはわからなかった。
 しばらく泣いたあと、孔はふと顔を上げて、スマイルの唇を求めた。慰めるようなやさしいキスを受けながら、俺は結局、こうして誰かにすがりつく生き方しか出来ないのかと、また悲しくなった。


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