時々、腹が減ったり眠くなったりする自分の体を、恨めしく思うことがある。なにも考えずに、機械のように生きることが出来たらどれほど楽だろう。自意識を失い、誰かの命令によってのみ生きることが出来たらどんなにいいか。
そう思うのは、やっぱり風間のことを考えてしまうからだ。
孔はふと手を止めて部屋に振り返った。
ここには長いこと住んだ。日本へ来てからずっとだから、もう四年半だ。最初の何ヶ月かだけはユースのコーチが一緒だった。だがその年の夏から一人きりだ。そうして翌年の冬から次第に風間が訪れるようになり、半年だけ共にベッドで眠り、また居なくなった。
――引越しでもするかな。
そんな金はどこにもないし、春先に更新を済ませたばかりだからあまり現実的な話ではないが、本当に引っ越しが出来ればいくらかは気分転換になりそうだ。少なくとも今よりは眠れるようになるかも知れない。
スマイルを犠牲にするのだけは嫌だった。これ以上誰かを犠牲にしてまで自分が楽にはなりたくない。そう思いながらも、結局は現実的にどうすることも出来ずに、とりあえず現状を維持するしかないのではあるが。
「晴れてたね、外」
寒そうに身をすくませながら戻ってきたスマイルがそう言った。
「そうか。私が帰る時は雲があった」
「月が出てたよ。きれいだった」
見てごらんよとスマイルが言うので、孔は手を止めて玄関先に出た。先ほどまで空を覆っていた雲はどこかへと消えており、不思議なほどきれいに晴れ渡った空で、満月に少し欠ける月が地上を皓々と照らしていた。
青白い光に包まれた景色は、どこか幻想的だった。
「…月本の月は、あれか」
孔は空を見上げて問うた。
「そうだよ」
「だったら、これがツキモトだな」
青白い光の、幻想的な現実。
不意に背後からスマイルが抱きついてきた。あまりに腕の力が強くて痛いほどだ。
「なんだ」
「…なんでもないよ」
こんなふうにスマイルに抱きしめられるたびに、悲しいぐらいに風間のことを思い出す。そうして風間の言葉を思い出す。
――君が居る意味はある。
「岡野が会いたいと言っていた」
ベッドに寄りかかるようにして床に座り、ビールを飲む合い間に孔は言った。
「時間があれば、またコーチをしてもらいたいと。暇な時期になにをすればいいのかと聞いていたな」
「そうか、地区大会終わったんだね」
そう言ってスマイルは首をかしげ、ふとなにかを考え込む仕種をした。チャーハンは早々平らげてしまい、テーブルにはスマイルが買ってきたつまみが幾つか載っている。
インハイの予選が終わったあと、スマイルに頼んで一度だけ辻堂まで来てもらったことがある。一人だけインハイの本戦に出る選手が居たので見てもらったのだ。なかなか全国の壁は厚かったが、かなりいい線まで行けたとは思う。
岡野は二年生だ。まだ来年もある。
「まあ、やっぱり基礎固めかな。とりあえず走り込みと、あと多球練習だよ」
「そうか」
なにか変わったメニューが作れないかと考えてはいたのだが、下手にいじくり回すよりは正道を走った方がいいようだ。
「また顔を出せ。部員もみんな、会いたがっている」
「ホント?」
「星野の知り合いが珍しいようだ」
ペコはいまやドイツの一部リーグで活躍する一級の選手だ。そんな男と知り合いだとわかれば、卓球好きな少年たちが放っておかないのは当たり前だろう。
けれどスマイルはその言葉を聞いて、不意に黙り込んだ。ビールの缶を持ったまま立ち上がり、孔とベッドのあいだに無理やり割り込んで腰をおろす。そうして孔の体を後ろからぎゅうと抱きしめた。
「なんだ」
「ん…別に」
「…つまみに手が届かない」
「いいよ、食べなくて」
「月本」
叱るように言うと、スマイルはいたずらっ子のようにくすりと笑い、腕の力を抜いた。そうして孔の首筋にそっと唇を触れた。その感触に孔はぴくりと体を揺らしたが、それ以上スマイルはなにもしてこない。小さく息を吐いて、つまみに伸ばしかけていた手を引っ込めると、やれやれといったふうに孔はスマイルの頭を撫でる。
「お前は、体は大きいのに、時々子供になるな」
「そう?」
自覚がないのが恐ろしい。
孔はスマイルの体に身を預け、全身の力を抜いた。ふとスマイルの唇が動いて首筋をゆっくりとのぼり、耳の裏をくすぐった。
「ん…っ、」
「孔て、ここ弱いよね」
「…日本語でなんと言うのかわからない」
「え?」
ぞわぞわと背筋を這い上がる、くすぐったい感じ。だがそれはある種、快感のさざなみともなって孔に襲いかかる。じっと息を凝らし、その波が去るのを待っていると、スマイルの唇が更に動いて波を増幅させてゆく。
「ん…っん、や…」
思わず逃げようと身をよじったが、スマイルはいつの間にか孔の両手を握りしめて床に押し付けてしまっていた。そうしておいて、逃げようとあがく孔の首筋に唇を貼り付け、そおっと吸っては移動させる。
「やっ…あ、あ…っ」
「嫌…?」
わざとらしく耳元でささやくように聞いてくる。嫌ともいいとも答えられず、孔はただ目をきつくつむってじっと耐えるだけだ。
「嫌ならやめるよ…」
いつもと声の調子が違う。孔が不思議になってそっと振り向くと、いつものからかうような顔ではなく、どこか寂しそうな笑顔でこちらをみつめていた。
「…どう、した」
「え?」
なんとなく調子が狂ってしまう。
「なにかあったか」
「…別に」
スマイルは握っていた孔の手を放して、またゆるやかに孔の体を抱きしめる。そうして肩に顔を乗せてじっと黙り込んでしまった。
服を通して伝わってくる温もりが心地良い。孔もそのままスマイルの体に身を預け、かすかな鼓動の揺れを感じていた。
「ねえ」
やがてスマイルが呟いた。孔はわずかに顔を上げる。
「孔が前付き合ってた人って、どういう人?」
思わず身を硬くした。
「なんで別れたの?」
「…月本には関係ない」