雨上がりの濡れた夜道を、孔はビニール傘を軽く蹴飛ばしながら歩いている。
十月も半ばを過ぎ、夜はいささか冷え込むようになった。空いている手を上着のポケットに突っ込みながら孔は首を回して、また寒くなるんだなぁとぼんやり考える。
寒い季節は苦手だった。
土日は夕方まで辻堂学院の卓球部で指導をし、そのあと藤沢の中華料理店で働くことになる。終電間際の電車で最寄り駅に帰り着く頃には、もうくたくただった。店へ行く前に軽く飯を食ってはいるのだが、それでも帰る頃には腹が減る。冷凍してある飯でチャーハンでも作るとしよう。一人暮らしが長いお陰で、だいぶ料理の腕前も上がった。日本に来て得た思わぬ副産物だった。
――やっと休みか。
店が定休日の月曜は、辻堂へも行かなくていいことになっていた。週に一度の休日である。そう思ったとたんに、ふと酒が飲みたいなと久し振りに考えた。確かまだ冷蔵庫にビールが残っていた筈だ。チャーハンでもつまみ代わりに軽く飲むことにしよう。
アパートの外階段の下に並ぶ郵便受けをのぞき、チラシが山のように溜まっているのを掻き出した。滅多に郵便など届かないので十日も平気でほったらかしにしてしまう。チラシのなかから電気料金の知らせをみつけ、金額だけ確認すると、チラシと一緒にそばのゴミ箱へ捨てた。
そうして一応足音を忍ばせながら一番奥の自分の部屋へ歩いていくと、台所の窓から明かりが洩れていることに気が付いた。
――またか。
孔は苦笑しながら鍵を取り出し、静かにドアを開ける。
一間きりの部屋には明かりがついており、奥に設置してあるベッドのなかで、男がうずくまるようにして大きな体を縮めて寝入っている姿が目に入った。自分の家ながら、まるで泥棒に入るかのように孔は足音をひそめ、そっと部屋に上がる。
ベッドのそばの棚にメガネがだらしなく開いたまま置いてある。静かな寝息を立てながら気持ち良さそうに眠りについているスマイルの顔を孔はじっと見下ろして、
――なんだってこいつはわざわざ人の部屋で寝るんだ。
呆れながらそう思った。
部屋のなかは特に動かされた形跡はない。放り出してあった雑誌がベッドの下に落ちている。多分読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。テーブルには空のグラスが一つ。
何時から居るのかは知らないが、よくまあ毎回、なにも楽しむもののないこんな部屋で時間が潰せるものだと、孔は感動すら覚えた。
上着を床に放り、台所で冷蔵庫を開け、ウーロン茶のペットボトルを取り出す。そうしてグラスに注いで立ったまま飲んでいたが、やがてまた部屋に戻った。ベッドに寄りかかるようにして座り込むと、しばらくのあいだ、スマイルの寝顔をみつめた。
先月誕生日を迎えて二十歳になったと聞くが、一つしか歳の違わない自分からしても、寝顔はひどく子供じみて見える。まるで母親の帰りを待ち疲れて寝入ってしまった子供のようだ。
――ってことは、俺が母親か?
そう考えて、あまりにもおかしくて、孔はつい吹き出した。
六月の終わり頃、海の匂いをかぎに近くまで出た時、スマイルと会った。スマイルは雨のなか、傘も差さずに砂浜でうずくまりながら砂を放り投げていた。
思えばあの時も、まるで駄々をこねる子供のようだった。なにか自分の思い通りにならないことがあってむくれているような、泣き出すのを我慢しているような、そんな顔をしていた。
泣きそうな目は相変わらずだ。なにがあったのかは知らないが、時々じっとこちらをみつめては不意に抱きしめられる。多分誰かの身代わりなのだろう。そう思い、孔は逆らわずにじっとしている。誰かにすがりつかれるのはこんな感じなのかと、じっくりとスマイルの腕の感触を味わいながら。
俺もこんな目をしていたのだろうかと、ぼんやり思いながら。
風間と別れてから一年が過ぎた。もっとも、別れたという表現も、正しいのかどうかわからない。あの半年の付き合いをどう呼んでどう解釈したらいいのか、孔は未だにわからなかった。
風間に抱かれ、その腕に翻弄され、嫌であったわけがない。ただ抱き合うたびに悲しくてたまらなかった。俺はこの男を利用している、ずっとそう思っていた。罪悪感が消えず、そうしてきっといつか、ひどく傷付けるに違いない。そう思ったから言ったのだ。
『もう来るな』
言葉通り、あれ以来二度と風間から連絡はなかった。電話もかかってこない。顔も見せに来ない。アパートの場所も藤沢の店も知っている筈なのに、まるでこの世から消えてしまったかの如く。
もう来るな。
自ら選んだ道の筈だったのに、当然のように悲しくて仕方がなかった。いつだって風間のことばかり考えてしまう。今どうしているだろう、誰と居るんだろう。そうして、あのやさしいおだやかな笑顔を、一体誰に向けているんだろう、と。
『君のことが好きなんだ。それだけだ』
多分、俺が受け入れられなかっただけだ、今はそう思う。風間を信じることが出来なかった、いつだってよそ者だった自分を受け入れてくれる場所も人も存在しない、そう思い込んでいた。だから風間の気持ちを疑った。憐れんでいるだけだと。
もしそうだったとしても、もっとほかのやり方があった筈だ。多分、あったに違いない。何度もあの朝を思い出し、風間の傷ついた顔を思い浮かべて、何故あんな言い方をしたのだろうと後悔した。
けれど過ぎた時は帰ることが出来ない。謝ることも出来ないまま、ずっとこの後悔を引きずるしかないのだろう。謝りたいと言っても、きっと会ってくれないに違いない。
孔はふとグラスをテーブルに置き、そっと手を伸ばしてスマイルの後ろ頭を撫で始めた。スマイルは知らずに眠っている。すがりつかれながら、俺もまた、結局はこいつを利用しているんだろうなと、寂しさのうちに孔は思う。
風間と別れて以来、長時間ぐっすりと眠ることが出来なくなった。うつうつと眠りの世界に漂いながら、どこか現実に意識が残っているような感じがして、不意に目が醒めてしまう。目を開けると世界はまだ暗く、当然のように誰も居ない。眠ろうとすればするほど目は冴えてしまって、暗がりのなかで煙草を吸い、ただ目をつむる。そうして白々しい朝を待つ。
こんなふうにスマイルがアパートへやってくる時は、それでもまだ眠ることが出来た。ずっと一人で暮らしてきたくせに、誰も居ないベッドを寂しいと思い、風間でない腕であっても、それに安堵する。
ただ変わらないのは、あの頃から夢を全く見ないということだ。
「ん…」
頭を撫でる孔の手に眠りを妨げられたのか、不意にスマイルが身じろいで、ゆっくりと目を開けた。寝ぼけたような目でそばにある孔の顔をじっとみつめる。
「ニイハオ」
孔はかすかに笑って呟いた。
「…お帰り」
「ただいま。よく寝たか?」
「うん…」
スマイルは、それでもまだ寝ぼけたような顔のまま、ふとんから手を伸ばして孔の首に手を回す。孔は抱き寄せられるままベッドに顔を伏せ、色素の薄い茶色の目をみつめた。
「何時から居る」
「八時過ぎ…バイト終わって、そのまま来た」
「飯は?」
「食べたよ。孔は?」
「食べたがな。少し減った。チャーハン作るぞ」
「作って」
甘えたようにそう言って、スマイルはそっと唇を寄せてくる。そうしてスマイルがそばに居るたびに、孔はわずかに香るその匂いをかぎとろうとするのに、それが未だになんの匂いなのかがわからない。
「月本は買い物に行く」
「なに買うの」
「ビール。あとつまみ。…泊まるんだろ?」
「…うん」
もっとも、帰れと言ったところで、もう電車はない筈だ。追い返すつもりもないが、そんなにこの部屋は居心地がいいのかとたまに不思議になる。
とりあえずの一服と、孔が煙草を一本吸っているあいだに、スマイルはベッドを抜け出して買い出しに出かけた。
煙草を口にくわえたまま目をつむると、思いのほか疲れている自分に気が付いた。出来ればこのまま眠ってしまいたいが、眠るには腹具合が落ち着かない。仕方なく孔は煙草を吸い尽くして立ち上がり、冷蔵庫から野菜を取り出してのろのろと仕度を始めた。