「ホントに平気だと思ってる…?」
ジェイの呟きにふと顔を上げる。
「去年に続いて戦力外通告受けてさ、使い物にならないって烙印押されてさ、泣く泣く故郷に帰らなきゃいけないのが、ホントになんでもないことだと思う?」
「……そりゃ、」
「監督から話振られた時点でペコに話してさ、どうしようどうしようって目いっぱい不安な姿見せたらペコは納得した? 自分も大事な試合控えてるのに、そんな面倒抱え込める? 僕に足引っぱってもらった方が良かったって言うの?」
「ジェイ、」
「僕だって続けられるなら続けたいんだよ、そんな当たり前のこと言わせるなよ」
わずかに語気を荒くしてジェイは言い放つ。その目にかすかに涙が浮かんでいるのを見て、ペコはもはやなにも言えなくなってしまった。気まずい空気のなかでうつむいて、ぽつりと「ごめん」と呟いた。
ふと視界の隅にジェイの手が差し伸べられて、ペコは顔を上げた。ぎこちない笑顔のまま、誘うように両手を広げている。ペコはトレーナーを捨てて立ち上がり、そっとジェイに抱きついた。大きな手がペコの体を抱きしめてベッドへ引き上げ、いつものように頭を撫でてくれた。
しばらくのあいだ、そんなふうにして二人は無言で抱き合っていた。
頬にジェイの唇が触れてペコは顔を上げる。まだ戸惑いの残ったまま、それでもペコはジェイにそっとキスをして、また首にしがみついた。
「…また、会いに来てよ」
「うん…てか、俺、帰んの嫌になってきた」
ペコの呟きに、ジェイは苦笑を洩らす。
「明後日また試合だろ? 僕だって別に、今日明日に帰るわけじゃないんだから」
「そうだけどぉ」
「あぁもう、だから言いたくなかったんだよ」
ペコの体を引き剥がし、
「いい? ペコがそうやって寂しがってくれるのは嬉しいけど、そんな顔されると僕も余計に寂しくなるんだよ。帰らなきゃいけなくなったのは自分のせいだからあきらめつくけどさぁ」
「……」
「ドイツに、こんな大きな心残りしていく僕の身にもなってくれよ」
そう言って、キスをした。
「……だよな、俺も、そう言ったもんな…」
「え?」
ペコの呟きに、ジェイはふと不思議そうな目をする。
「…日本出てくる時に、同じこと、言ったなぁと思って」
『笑えよ』
まさかこんなふうにして、スマイルに言った言葉が自分へ返ってくるとは思いもしなかった。
ジェイはしばらくなにか考え込むような顔をしていたが、やがてふと笑顔になって、
「とりあえず、なにか美味いものでも食べに行こう。お腹空いただろ?」
「ん…て、今何時?」
「じきに一時回るよ。ペコのお陰でキッチンの掃除出来なかったな」
「俺のせいかよ!?」
くすくすと笑いながらジェイはまたキスをする。
「行こう」
気にするなと言われても、そんなことはどだい無理な話だ。未熟さゆえなのだろうが、どうしても試合に集中することが出来なくて、結局残り三試合のうち、勝てたのは一試合だけだった。それでも一部リーグ移籍初年度の成績としてはなかなかのものだろう。
安堵のうちにツアーを終わらせ、チームの仲間何人かと共に、打ち上げと称して飲みに行った。ジェイの帰国のことを忘れようとしてペコは飲みすぎた。ふらふらになってベッドに倒れ込み、夢も見ずに泥のように眠った。
日本からの国際電話が入ったのは、そうして珍しく二日酔いした朝のことだった。
「全日本ですか?」
電話の向こうから飛んでくる声は妙に甲高く、気のいいハゲかかった五十代の親父、というイメージをペコに刷り込んでいた。
『そうです。日本のトップの方々が集まって優勝を競います。実質的な日本一を決める試合です。基本的には十八歳以上の方なら参加可能ですし、星野さんはドイツリーグでも活躍されておられる一流の選手ですし、もしお時間があればぜひ参加していただきたいと…』
男女各二十名ずつの強豪が出揃い、日本のトップを決める大きな試合だ。去年風間が言っていたのはこの試合のことである。
迷う必要はない筈なのに、何故かペコは即答出来なかった。電話口で渋っていると、今月中でいいから返事をくれと電話向こうの男性が言って話は終わった。受話器を戻して痛む頭を抱えたまま、ペコはソファーに腰をおろす。
正直出てみたい気はする。インターハイでは限られた年齢の相手しか居なかったが、今度は一度も戦ったことのない先達たちと対戦出来るのだ。なにもなければ喜んで、と即答していた筈のことなのだが。
――日本かあ。
正月すら帰らなかったから一度帰っておきたいとは思う。けれど帰るとなれば当然そこにはスマイルが居るわけで。
ぼんやりと物思いにふけるうちにペコは、自分がスマイルに会いたくないと思っていることに気が付いた。ただし去年の時とは少し気持ちが違う。どこがどう違うのかは自分でも漠然としすぎていてわからなかったが、ただ、会えばとても嫌なことになるだろうというのだけはわかった。
『あと一年だけ迷惑かけさせて』
約束の一年がじきに終わる。ただ今回の誘いがなければ、正直次のビザ申請まで知らん振りをしていようと思っていた。出来ると思ったのはジェイが居たからだ。ずるいのはわかっていたけれど、ジェイと居ればスマイルのことを考えずに済んだ。
未来を見ずに済んだ。
会いたくないのが何故なのか――どうして嫌なことになるのか、きっと、本当はわかっている。それはずっと前から答えが出ていることだ。この一年、特にジェイと一緒に過ごすようになった何ヶ月間かは、言ってみれば神様がくれた執行猶予みたいなものだった。
迷う必要などどこにもない。ペコはソファーの上で座りなおし、痛む頭を抱えながら、再び受話器を手に取った。
「じゃあその日本の大会に出るんだ」
「出る」
ソファーにジェイが座り、そのジェイの腕に背中をもたれかけさせて肘掛の向こうに膝先を垂らしながら、ペコは雑誌をめくりワインの入ったグラスを口に運んでいる。
結局あのあと監督に確認を取り、全日本への出場を決めた。帰国は五月の二十日前後。大会は六月の頭だが、日本に居るあいだはどこかの企業の卓球部が体育館を貸してくれるというので甘えることにした。そのあいだ実家に居れば家事のわずらわしさからも解放される。
四月に入り、着々とジェイの帰国の日が近付いてきていた。昨日最後の試合を終わらせ、とうとうチームから所属を消されたという。「終わってみると呆気ないもんだねぇ」と笑っていたが、同じように笑っていいものなのかペコにはわからなかった。
とりあえず、
「お疲れさん」
そう言って祝いのワインを持ってやってきたのだ。
「ねえペコ、十四日の夜だけでいいから、泊めてもらえないかな」
「十四日? いいよ、別に。なんで?」
「その前にここ出なきゃいけないんだ。なんとか交渉はしたんだけど、ぎりぎり一日だけ早まっちゃってさ」
そう言ってジェイはペコの首に腕を回すようにして頭を撫でる。
「そっか。帰んの、十五日か」
「うん。三時の飛行機」
ペコはグラスをテーブルに置き、雑誌を放ると、ジェイの足の上に横になった。
「あと十日もしないで帰っちゃうのかぁ」
「寂しくなるね」
「だなぁ。…泣いてやろっか?」
にやにや笑いながら言うと、
「生意気な子供には鉄拳制裁」
そう言ってペコの額にでこピンをかましてきた。痛みに顔をしかめながらも、ペコは伸ばしたジェイの手を握り、腹の上に置いた。
「…生意気言ってねぇと、ホントに泣きそうなんだよ」
「でも僕もう、ペコの泣き顔は嫌ってぐらい見たからなぁ」
「いつ?」
「ベッドとかソファーとかで、かわいい顔してよく泣くだろ」
言いながらジェイはにやにやと笑い返した。
「――だからオヤジって嫌い」
そう言って照れたようなむくれたような顔をすると、ジェイは空いている方の手でペコの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「うそだよ。ありがと」
ふとペコは体を起こしてジェイの足の上に座り、首に抱きついてキスをした。
「置いていかれる方も辛いけど、置いていく方も辛いもんな」
「そうだね…」
二人はしばらくのあいだ、抱き合ったまま無言で居た。別れの時は確かに近付いてきていたが、それを口に出し合ってわざわざ悲しくなる必要もない。お互いがそのことを自覚していて、だからただ温もりを感じていようと、最近ではこんなふうに静かに過ごすことが多かった。