誰かの手が頭を撫でている。ペコは目を開けて、目の前に見覚えのある首をみつけた。俺、いつ日本に戻ったんだっけと考えながら顔を上げ、そこにある筈のスマイルの笑顔を探した。
「お目覚めですか?」
だが当然のようにスマイルが居る筈もなく、そこにあるのはジェイの顔ばかりだ。一瞬わけがわからなくなりながらも、「うん」とうなずいてジェイの温かな体に寄り添った。
――俺、なにしてたんだっけ。
記憶がこんがらがっている。茫然としていると、不意にジェイが手首をつかんで持ち上げた。
「…やっぱり、ちょっとだけ跡ついちゃったね」
その一言で全てを思い出した。今更のように顔を赤くしてペコはうつむいた。
ジェイはくすりと笑い、
「失神するほど良かった?」
「……っ」
ジェイの胸に逃げ込んで顔を隠す。ジェイはペコの手を放すとまた慰めるように頭を撫でてそっとキスをした。
「ペコって、薬効きやすい方?」
「薬…? あんまし飲まないから良くわかんねえけど…」
「じゃあ、やっぱり量が多かったか」
「なにが?」
不思議になって顔を上げると、ジェイはにやりと笑ってみせた。
「ペコに食べさせたお菓子のこと」
「お菓子? お菓子って――」
りんごの味の、ピンクの紙切れ。
「え? あれって、なんかの薬?」
「…気持ち良かっただろ?」
そう言ったままジェイはにやにやと笑っている。とたんに全てを了解したペコは、不意に身を起こしてクッションの一つをつかむとバシバシとジェイを叩きまくった。
「信じらんねえ! 普通するか、そんなこと!?」
「なんだよ、別に依存性もないし、ちょっとしたお遊びじゃないの」
ジェイはペコが振り上げたクッションをつかみ、ぐいと引き寄せ、
「すっごく色っぽかったよ」
そう言って唇を重ねた。ペコはあらがったがジェイの腕から逃れることは出来なかった。荒々しく口のなかをまさぐるジェイの舌の動きに負けてやがて力を抜き、クッションを捨てると首に抱きついた。
唇を離すと、不思議なほど熱っぽい緑色の瞳がじっとこちらをのぞきこんでいた。
「…もう、すんなよな」
すねたような口調でペコは言う。
「使いたくても、ペコが全部食べちゃった」
「食わせたのはジェイだろ!? …っかあー、も、信じらんねえ」
そう言ってペコはベッドにごろりと横になった。毛布を頭までかぶってジェイの視線をよける。
ジェイはくすくすと笑いながらペコの頭を撫でて、
「お陰でいい土産が出来たよ」
「土産って?」
すねた表情のままペコは毛布から顔だけ出してジェイの姿を見上げた。
「なに、アメリカ帰るの?」
「うん。ツアーが終わったらね。多分来月の十五日ぐらいだと思う」
「ふーん…で、いつ戻ってくんの」
ジェイは小さく笑ったままペコの頭を撫で続けている。
「ジェイ?」
「戻ってこないよ」
「え?」
言葉の意味がわからず、ペコは聞き返しながら体を起こした。
「戻ってこないよ。僕はあの退屈な町で精油所に勤めるんだ」
「――なんだよ、それ」
「辞めるんだよ。またしても戦力外通告さ。お荷物に払うお金はないんだと」
「…うそだろ?」
ジェイはクッションを抱えて寂しそうに笑い、
「今日がエイプリルフールだったら良かったのにねぇ」
「…なんだよ、それ。え? なんで、そんな突然?」
「突然でもないんだよ。話は年明けぐらいにもらっててさ。予定の試合数を勝てなかったらツアー終了と同時に除名だって、監督から言われてたんだ」
「だけど――」
「勝てない人間は必要ない。当然のことだろ?」
そう言ってジェイは同意を求めるように小首をかしげた。
確かに、それはそうだ。ドイツリーグはその厳しさゆえの世界最高峰なのだから。
「…でもさ、」
反論しようとして、ペコは言葉に詰まった。そのままなにも言えず、ぎゅうと毛布をつかんでうつむいてしまう。
「ペコが気にすることじゃないんだよ」
そう言ってジェイは慰めるようにペコの頭を撫でた。
「当然の結果だよ。僕が勝てなかったのは事実なんだから。勝てる人間のみが残ればいい。それは最初からわかってることだろ?」
「…でもさ、…なんだよそれ…」
まさに寝耳に水の話だった。
「……もう会えないんかよ」
「別に死ぬわけじゃないんだから」
苦笑してジェイはペコの体を抱き寄せた。
「来たかったらいつでも遊びに来なよ。ホントになにもない退屈なところだけど、自然だけはたっぷりあるからさ」
ペコは茫然としたままジェイの腕に抱かれ、頭を撫でる手の動きに身を任せていた。
「…なんで、もっと早く教えてくんなかったんだよ」
「まだ充分巻き返しのチャンスがあったからだよ。年明けの時点ではまだ半々だったんだ。どう転ぶかわからない状態でそんなこと教えられて、ペコ嬉しい?」
「……」
「余計な心配させたくなかったんだよ」
「…でも、帰るんだろ」
「仕方ないね。勝てなかった僕が悪いんだから」
「……」
ペコは不意にジェイの腕から逃れ、毛布を放り出してベッドをおりた。
「俺、帰る」
そう言いながら床に散らばる服を取り上げて身につけてゆく。ジェイはしばらくなにも言わないままだったが、
「僕、最後にペコのそんな怒った顔見て、アメリカ帰らなきゃいけないの?」
「俺のせいかよ」
「半分は僕も悪いと思うしペコの気持ちもわかるけど、今日が最後になるならせめて笑ってよ」
トレーナーを取り上げながら、ペコはふと動きを止めた。
「…そんな、いきなし、笑えるかよ」
「じゃあ今日じゃなくてもいいから、また会いに来てよ。笑った顔見せにさ」
「……ジェイは」
「うん?」
「なんでそんな…平気な顔してんだよ」
「平気じゃないよ」
そう言ったジェイに振り返り、ペコはうかがうように顔を見る。
「寂しくて悲しくて、おまけに悔しくて、今にも泣き出しそうだよ」
「うそつけ、全然なんともねえって顔しやがって」
「……」
「今日言わなかったら、いつ言うつもりだったんだよ」
「ペコの試合が終わったら。あと十日? もう少し我慢してたかったけどなあ」
「…んで、気ぃ遣ったつもりかよ」
「なんだよ、なにが不満なの。秘密にされてたことがそんなに腹立つ?」
「別に、そうじゃねえけど」
怒っているわけではなかった。それは確かだ。ただ突然告げられた事実を、どう受け止めたらいいのかわからなかった。ペコはどうしようもなくなって、トレーナーを抱えたまま床に座り込んだ。そうしてむっつりと黙り込みながらカーペットの模様をぼんやりと眺めた。