「ねえ」
「あに」
「ペコが言うスマイルって、なに? 恋人のこと?」
「…なんで、ジェイが知ってんの!?」
「あれ、当たりだったか」
 そう言ってジェイは苦笑した。ペコは咄嗟になんと言ったら良いのかわからなくて、ジェイの首に抱きつきながらもうつむいてしまう。
「人の名前? にしては、あんまり有り得ない名前だよなぁ」
「……あだ名だよ。俺がつけたんだ。笑わねえ奴だからさ、せめてあだ名で笑っとけって…」
 もう十年以上も前の話だ。
「なんでジェイが知ってんだよ。俺、言ったことあったっけ」
 顔を上げてそう聞くと、ジェイは笑いながら肩をすくめて、
「その、かわいい顔で泣いてる時に、何度も聞かされたんだよ」
「……っ」
 全然自覚していなかった。ペコは顔を真っ赤にして、またうつむいてしまう。
「…ごめん」
「いいよ、別に。気にしてないって言ったらうそだけど」
 そう言って何故か慰めるように頬にキスをしてくれた。
「好きなんだね、その人のこと」
 大きな手が頭を撫でる。
「……」
「ペコ?」
「…好きだよ」
 ペコはジェイの首にぎゅうとしがみついて顔を隠した。そうして、
「大好きだよ」
 会えなくて不安で、心配でたまらなくて、ジェイを利用してまで忘れようとするほどに好きなのに。
 ――俺は、あいつを捨てるんだ。
 迷いもなく卓球を追えるようになった。障害となって目の前に立ちはだかっていたスマイルの横を、今なら平気ですり抜けられる。たとえ泣いてわめこうがすがりついてこようが、それを無視してただ前へと、目指す一点へと、歩いていける。
 嬉しいことの筈なのに、何故かペコは悲しくてたまらない。
「なんで今更そんなこと聞くんだよ、ジェイのバカっ」
「だってぇ。前からすっごく気になってたんだもん」
「嫌なこと思い出しちまったじゃんかよ、せっかく考えないようにしてたのに…っ」
 なんで会いたくないのか。
 なんで会うと嫌なことになるのか。
 答えは前から出ていた。ずっと前からわかっていた。まだ日本に居る時から思っていたことだ。
 俺は、いつか、こいつを見捨てる。
 それでもいいとあの時は思った。あの時は、まだ存分に好きだと言えた。だけど今はそうじゃない。あの頃危ぶんでいた未来に、こうして実際たどりついてしまった。
 いつかこうなることはわかっていた。だから、覚悟していた筈だったのに。
「…俺って卑怯だな」
「なんで」
「だって卓球に専念したいからっつって、そいつのこと捨てるんだぜ、きったねぇよなあ」
「そんなことないよ」
「そんなこと、あるっ」
 がむしゃらに言い募るペコにジェイは笑いかける。
「そんなに無理して悪者になる必要なんてないんだよ。好きなら好きでいいじゃない。卓球放り出してまでその人と一緒に居たいって言うならそうすればいいだけだ。でも違うんだろ?」
「…そうだよ」
「その人はペコのこと応援してくれないの?」
「…してくれるよ。ずっと前から、俺のことヒーローだっつって…」
「素敵な人だね」
「……ああ」
「ペコのことが大好きなんだね」
「…そうだよ」
「ペコも、その人のことが好きなんだね」
「好きだよ」
「大好きなんだね」
「――大好きだよ…っ」
 そうしてジェイにしがみついたまま、ペコはわずかにしゃくりあげる。ジェイはいつものように、そうして慰めるようにペコの頭を撫でてくれた。
「だったら、いつまでもヒーローで居てやりなよ。それだけでいい話だろ」
「んなこと…わかってるよ…! ってか、なんでジェイがそんなに簡単に説明しちゃうんだよ、グチグチ悩んでた俺が、なんかバカみてえじゃんか!」
「うーん、やっぱり年の功ですかねぇ」
「真面目に解説すんじゃねえやっ」
「ペコこそ、泣くか怒るかどっちかにしなよ」
 そう言われてペコはふと顔を上げ、
「…じゃあ泣くー」
 そう言ってまたジェイの首にしがみつき、静かに泣き始めた。ジェイは痛いほどに背中を抱きしめて、ペコの頬にキスを繰り返す。
 望んでいた未来にたどり着いただけの話だ。それはひどく嬉しいことである筈なのに、どうしてこんなに寂しくて、そうしながらもどこかやっぱり嬉しいのが何故なのか、いつまで泣いてもペコにはわからなかった。


 十四日の晩だけでいいとジェイは言ったが、早めにアパートの荷物を整理して十日にはペコの部屋へやって来た。ペコが来いと誘ったのだ。ツアーが終わったとはいえ日々のトレーニングは欠かせないので、ペコが行くことは出来ない。だから早めに荷物を片付けて泊り込めと命令を下したのだった。
「さんざん泣かされた詫びしてもらわねぇとな」
 そう言うと、
「また泣かせることになると思うけど…」
「じゃかましいやっ」
 そうして帰国まで毎晩抱き合って眠った。自分のベッドのなかでもジェイの体は気持ち良くて、毛布にくるまったままジェイが立てる物音を聞いていたくて、毎朝ペコはジェイを困らせた。大きな手で背中を抱かれて、頭を撫でられ――結局、何度か泣かされて――そうして、二人は十五日の朝を迎えた。
「忘れもんはねえよな」
 玄関を出ようとしているジェイに声をかけてペコは鍵を取り出す。
「大丈夫。あったとしてもたいしたものじゃないよ」
 そう言ってジェイは笑った。
 すぐそばの店で簡単に朝食を取り、タクシーを拾う為に広場へと向かう。そのあいだ二人は言葉少なで、ありきたりな話をするよりかはまるで二人で作る沈黙の方が大事だと思っているかのようだった。
「思いついた時でいいから、手紙くださいよ」
 タクシーのトランクに荷物を放り込みながらジェイが言う。
「写真だけでもいいからさ」
「んなことするあいだに、遊び行くよ」
「迷子になるなよ」
「だーかーらー、子供扱いすんなっつうの」
 ジェイは苦い顔をするペコに笑いかけて、
「じゃあねペコ、愛してるよ」
 そう言ってキスをした。
 びっくりしているあいだにジェイはタクシーに乗り込み、ドアを閉める。そうして笑いながら手を振り、あっという間に去ってしまった。
 ペコは呆気に取られながらタクシーが走り去るのをしばらく眺めていたが、
「――そんな置き土産していくんじゃねえや!」
 思わず日本語でそう叫んだ。通りを行く人たちが驚いてこちらを振り返ったが、ペコはそのままいつまでもタクシーが消えたあとをみつめていた。


 五月十八日。
 ペコは再び機上の人となり、長い長い時間をかけて日本の土を踏んだ。時差ぼけでくらくらになりながら税関を抜けてロビーへ出ると、
「ペコ!」
 懐かしい声が飛んできた。
 だるい頭を上げると、壁に寄りかかるようにしてスマイルが笑いながら手を振っていた。
「――なにしてんだ、お前、こんなとこで」
 思いもしなかった人物の出迎えに、ペコは緊張する暇さえ持てなかった。スマイルは駆け足で近寄ってきてペコの荷物を奪い取る。
「ペコのお母さんに飛行機の時間聞いたんだ。どうせだから驚かせてやろうと思って」
「そりゃどうも」
「写真では見てたけど、実際に見るとやっぱり雰囲気違うね」
 そう言ってペコの髪を引っぱり、また笑った。
「んで? 探し物はみつかったのかよ」
 新宿までの電車の時間を確認しながらペコが聞くと、
「みつかったよ」
 スマイルは満面の笑みで答えてみせた。
 ペコはほんのわずかのあいだその笑顔をぼうっとしたように眺めていたが、やがて同じように笑い返すと、
「ほんじゃ、戻りますか」
 そう言って先頭を切って歩き出した。

  −未来だった日 了−


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