思っていた以上に疲労も酔いも強く、すぐさま眠りに落ちてしまいそうだった。そのまま眠らなかったのは、背中に当たる孔の手の感触に気付いたからだ。以前と同じように、泣いている子供をあやすかの如く軽くぽんぽんと叩いている。重いまぶたを開けると、同じようにいささか眠そうな目をして孔がじっとこちらをみつめていた。
「なに…?」
「――月本、なにが悲しい」
「…別に。なんでだよ」
 孔はすぐには答えず、少し考え込むようにまぶたを伏せた。そうしてまたぽんぽんと背中を叩きながら、
「お前は、泣く前の目をする」
「そう?」
「時々な。この前も思った」
「……」
「今日、部活の時は楽しそうだった。だけどそれでも、時々悲しい顔をする」
 そう言って孔はかすかに笑う。
「泣いている人は慰める。ほかに出来ない」
「…孔だって、同じだよ」
 時折、どこか遠くを見て、手の届かないなにかに思いを馳せている。
 スマイルはふと手を伸ばして孔の髪に触れた。そうしてそっと頭を撫でる。孔は最初、その感触に驚いたように目を見張ったが、やがて力を抜いてスマイルの手の動きに身を任せた。
「嫌じゃないの」
 不意の問いかけに、孔が顔を上げた。
「こんな、男と二人でベッド入ってさ。なんで追い出さないんだよ。自分の家なのに」
「……」
 孔はふと腕の位置をずらして、同じようにスマイルの髪に手を触れた。そうしてそっと握り、遊ぶかのように指で梳く。
「昔、人にひどいことをした。助けてもらって、傷付けた。謝りたいし、礼を言いたいが、もう会えない。だから、代わりに誰かを助ける。そう決めた」
「死んだの…?」
「死んではいない。元気だ。だけど、もう会えない。きっと会ってくれない」
 孔は寂しそうに目を伏せる。そうしながら、また口を開く。
「だから自分に出来ることをする。そう決めた」
「…答えになってないんだけど」
 そう言うと、不思議そうに孔がこちらを見た。
「嫌じゃないのかって聞いたんだ」
「――嫌なら、殴りつけて放り出す」
「意外に乱暴者だ」
 スマイルはくすくすと笑いながら、そっと顔を寄せて孔の匂いをかいだ。ふわりと花のような甘い香りがする。
「上海に居た時は、よくケンカをした。警察にも捕まった」
「警察? すごいね」
 スマイルはメガネをはずしてベッドの脇の棚に置く。そうしてふとんのなかに腕を戻して孔の体をぎゅうと抱きしめた。
「日本とは名前が違う。日本語でなんと読む」
 そう言って孔はスマイルの腕から逃れて片手を伸ばし、シーツの上に「公安」と文字を書く。
「こうあん、だよ。日本にも公安はあるけど、警察とは少し仕事内容が違うみたいだね」
 スマイルは孔の手をつかみ、そっと唇に寄せた。孔は真っ黒な目でそれをじっとみつめている。握りしめた孔の手はひどく冷たい。
「寒い?」
「いいや。何故だ」
「冷たいよ。…冷え性?」
「なんだ、それは」
「足とか手とかがすごく冷たくなる人のこと。――なんでそんなにケンカしたんだよ」
 孔の手の甲に唇を触れながらスマイルは聞いた。
「ユースの試合で、勝てなくなった」
 スマイルの唇の感触にふと身を震わせながら孔は答えた。
「どうしたらいいのかわからない。腹が立つ。卓球で勝つ代わりに、ケンカで勝つ」
「楽しかった?」
「楽しければ、卓球は辞める」
 そう言って孔は小さく笑う。
「辞めていれば、今日本に居ない」
「…やっぱり、海外で、一人で暮らすのって大変?」
「楽ではない。言葉が違う。習慣が違う。…時々帰りたいと思う」
 スマイルの腕のなかに逃げ込みながら孔は呟く。
「帰りたい時は海に行く」
「海?」
「匂いをかぐ。海の匂いは同じだ」
「じゃあこの前も――」
 孔はうなずいた。
「月本が居るとは思わなかった」
「それはこっちの台詞だってば」
 二人はくすくすと笑いあう。スマイルは孔の手を離してまた髪に手をやった。そうしてゆっくりと何度も撫でながら、ふと下を向く。つられたように孔もこちらを見上げていた。互いにためらいながら唇を寄せて、軽く重ねる。そうしておいて、あわてて孔は顔をそむけ、スマイルの胸元に鼻先をうずめた。


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