放ってあった雑誌をめくりながら三十分ほど待つと、やがて孔がマグロの切り身を皿に盛ってやってきた。ちゃんとツマも添えてある。
「つまみだ。飯が炊けるまでもう少し待て」
そう言って箸を渡すと、自分は着替えを取り出してさっさとシャワー室に消えてしまった。一人取り残されたスマイルは、また雑誌をぱらぱらとめくりながらビールを飲み、マグロを口に運ぶ。そうしてぼけっと天井を見上げて、小さく鼻唄を歌いだした。
そのまま畳の上に横になった。久し振りにきちんと体を動かしたせいか、程よい疲労に見舞われていた。下手をするとこのまま眠ってしまいそうだ。
「飯、いらないのか」
シャワー室から出てきた孔が、床に寝転がったスマイルを見下ろして呆れたように言う。
「食べます、食べます」
「寝るなら寝ていいぞ。全部私が食べる」
そう言って笑うと自分もビールを取り出し、ふたを開ける。そうしながらまた台所に戻ってガスレンジの火をつけた。やがて飯の炊ける匂いがかすかに漂うと同時にピーっという電子音が聞こえてきた。どうやら飯が炊けたようだ。孔は煮物やら漬物やらを次々に運んできてはテーブルに置いた。男の一人暮らしでこれだけきちんとしたものが作れれば、たいしたものだ。
全て揃うと、ようやく孔はスマイルの向かいに腰をおろした。そうして今更のようにビールの缶を合わせてくる。スマイルは小さく「お疲れ様でした」と呟いて返した。
「岡野は、どうだ。いけそうか」
「そうだね。確かに筋がいいよ。もっときちんと攻撃する意志が持てれば、かなりいい線行くと思う」
「あの男は礼儀が良すぎる。遠慮が多い。なにもしないなら、それでいい。だけど勝負は違う」
「僕もそう思う」
あの遠慮深さは勝負の世界では邪魔にしかならないだろう。本当に昔の自分にそっくりだとスマイルは思った。今の自分が見ていてすら歯がゆさを覚えるのだから、自分が現役当時の小泉の苛立ちは、なおのことだったろう。
孔の作った飯は美味かった。
「いつも自分で作るんだ?」
「作る。買うと高い。コンビニは便利だ。だけど金がかかる」
「辻堂から給料出てるんだろ?」
「充分ではない。藤沢の店で働かないと、駄目」
「そっか」
それでも在学中より気が楽だと言って孔は笑った。
「部員を見るのは面白い。毎年新しい部員が入る。いろんなタイプが居る」
そう言って孔は眠そうにあくびをした。
「寝てないの?」
「――違う」
酒のせいだと言うが、体育館に居た時から眠そうな顔はしていた。
「月本も眠いか」
「少しね」
疲労と酔いがいい具合に混ざって、久し振りに楽しい酒を飲んでいると感じた。外では滅多に飲まないが、それでもこんなふうに気分良く酔うことは珍しい。
なんとなく飲み足りなくてもう一本ビールを開ける。孔は食事を済ませて煙草に火をつけていた。嫌なことがあると吸うと言っていたのをスマイルは思い出す。このあいだ飲んだ時も結構吸っていた。一体どんな嫌なことがあったんだろうとふと思い、聞いてみたい気もしたが、やめておいた。わざわざ不快にさせる必要もない。
「月本はやっぱり卓球が好きだな」
窓枠に寄りかかって眠そうな目をしているスマイルを見て、小さく笑いながら孔が言った。
「そう…?」
「楽しそうだった。戻りたくはないか」
「…それは、ないけど。でもまあ、懐かしくはあったよ。昔を思い出した」
酔いの混ざったため息を吐いてスマイルは体の力を抜いてゆく。ずるずると、半ば寝転がるようになりながら、目の前にあるテーブルの縁を眺めた。
「昔は僕も、あんなふうに一生懸命になってやってたんだよなぁって、なんか不思議な気分だった。岡野くんみたいにすごい頑張ってる子とか見てるとさ、もう頑張らなくていい自分が、なんか変な感じだった」
そう考えると、当時はすごく楽だった。目指すべき場所があり、自分の居場所がきちんと存在していて、そのなかで自由に遊ぶことが出来た。なにも迷うことなく一点だけをみつめられた。
それが、今はどうだ。当時よりもずっと自由でありながら、その自由に首を絞められてしまっている。これでは本末転倒もいいところだ。
「――寝るなら、ベッドで寝ろ」
手元まで伸びてきたスマイルの足を叩いて孔が言う。
「寝ないよ…大丈夫」
「私は構わん。泊まりたければ泊まれ。ふとんはある」
「大丈夫だよ」
「目が半分も開いてないぞ」
くすくす笑いながら孔は立ち上がり、スマイルの手からビールの缶を奪ってテーブルに置いた。そうして両手をつかんで立ち上がらせようとする。けれどスマイルがそれに抵抗すると、「お前は子供か」と苦笑しながら両手を背中に差し入れて抱き起こした。
スマイルは孔の背中にゆるく両腕を回しながら立ち上がり、確かに眠いなぁと今更のように実感した。そして孔の首筋からふわりと立ちのぼるかすかに甘い匂いに、一瞬だけ気が遠くなりかかった。
「ほら、ベッドに入る」
「ん…でも僕がベッド使っちゃったら、孔はどうするんだよ」
「ふとんがある。大丈夫」
「えー、そんなの寂しいじゃん。いいよ、一緒に寝ようよ」
そう言ってスマイルは孔の背中に抱きついたままベッドに転がり込んだ。
「月本、離せ」
「やだ」
手のなかの温もりが単純に気持ち良かった。片手で孔に抱きついたまま、スマイルはもう片方の手でもぞもぞとふとんを引き上げ、体にかける。そうしてまた孔の背中に両手を回して、
「おやすみなさーい」
半ば酔いのせいでまともに回らない頭で、これで追い出されたら大変だなぁと考えつつも目を閉じた。