台に着くと、岡野が緊張した面持ちでこちらを見上げている。
――まだ高校生なんだよな。
当たり前のことに今更思い至って、スマイルは岡野に向かって笑いかけた。
「よろしく」
「よろしくお願いします!」
岡野の先制攻撃で試合が始まった。
最初のうちは様子見を兼ねて待ちの態勢で球を受けた。なかなか上手いところへ打ち返すのに感心しながらも、どこか遠慮されているような節があり、なんとなく落ち着かない。それでもわざとゆるく球を返せば、さきほどの言葉通り、どうにかして攻めようと苦心している様子が見えた。伸ばしがいのある子だなとふとスマイルは思う。
年長者の威厳として負けるわけにはいかなかったが、それでも孔の「手加減しろ」と言う命令に従い、結局二十一対十三でスマイルは岡野に勝った。
「今更面倒かも知れないけど、フットワークをきちんとやった方がいいな」
孔からタオルを借りて汗を拭きながらスマイルは言う。
「基礎は大事だよ。基礎体力と打ち込み、あとフットワークを整えれば大丈夫だと思う」
「はい。ありがとうございます」
「インターハイに出るのは初めて?」
壁際に岡野と二人で座り込みながらスマイルは聞いた。
「初めてです。中学の県大会でも上位に入ったことがなくって…」
「だけど、いい腕してるよ。もったいないぐらいだ。せっかくなんだから優勝するぐらいの気概で居ないと」
「はあ」
「大丈夫だよ。君なら絶対にいける」
そう言うと、岡野は照れたように笑った。
「あの、二年前のインハイって言うと、星野選手が出た時ですよね」
「ああ。同級生だよ」
「ホントですか!? 星野選手ってどういう感じの人なんですか?」
「どうって…まあ、ただの卓球バカかな」
スマイルの言葉に、岡野は初めて緊張を解いたように大声で笑った。
そのあとも乞われるまま打ち合いなどに参加し、五時過ぎに部活は終了した。部員たち、特に岡野から丁寧に頭を下げられ、スマイルはなんだか複雑な気分になった。
こうして現役の選手と一緒に居ると、まだ自分も部員であるかのような錯覚を覚える。でも当然のように、自分は現役を退いた一般人なのだ。ここは彼らの領域であって、自分はよそ者だ。なんとも不思議な感じだった。
「お疲れ」
缶ジュースを差し出しながら孔が笑う。
「どうだ、久し振りの部活は」
「なんて言うか、複雑だね。でも面白かったよ」
「それはいい」
汗で濡れたTシャツを着替えながら孔は素っ気無く答えた。自分も着替えを持ってくれば良かったなとスマイルは湿ったTシャツをあおぎながら後悔した。窓もカーテンも閉め切っているお陰で、体育館のなかは異様な蒸し暑さだった。それでも、それが懐かしかった。こんなところへは二度と足を運ぶことがないと思っていたのだ。滅多にない機会を与えてくれた孔に、スマイルは心の内で感謝する。
「行こう」
帰り際、藤田に挨拶をすると「良かったらまた来てください」と言われた。曖昧にうなずきながらも、嬉しかった。
孔はスマイルを連れて辻堂学院の正門を出た。そうして駅とは反対方向に向かう。
「どこ行くんだよ」
「この前言った。飯をおごる」
「そうだけどさ」
裏道を抜けて住宅街へと入ってゆく。たどり着いた先は、小さな二階建てのアパートだった。
「ここ、私の家」
「――はあ」
一番奥の部屋の鍵を開けると、「入れ」と言って孔は先に部屋に上がり、明かりをつけた。スマイルは恐る恐る玄関に入り込んで扉を閉める。台所と六畳程度の部屋が一つきりの、狭いアパートだった。
「ずっとここに住んでるの?」
「そうだ。――シャワー浴びるか?」
「浴びる」
汗臭くてまいっていたところだ。有り難く申し出を受けてタオルとTシャツを借りた。
孔の部屋には風呂がなく、狭いシャワー室があるきりだった。それでも汗を流せるのは気分がいい。温めの湯を頭から浴びると、ようやく人心地がついたような気がした。
乾いたTシャツに着替えて頭を拭きながらシャワー室を出ると、孔が台所で包丁を握っていた。
「なんだ、孔が作るんだ」
「上手いぞ」
そう言って包丁をかかげるとにやりと笑う。
「冷蔵庫にビールがある。飲みたければ飲め」
「もらう」
冷蔵庫の上に大きく葉を広げたなにかの植木鉢が置いてあった。スマイルはビールの缶を取り出すとその葉を指でつつき、することもなく、ビールを飲みながら孔の背中をみつめた。孔はなにやら鼻唄を歌いながらてきぱきと作業をこなしてゆく。ふと冷蔵庫に振り返ってスマイルの視線に気付き、
「なんだ」
「いや、手慣れてるなぁと思って」
「一人が長い。自然と覚える」
そう言ってスマイルにどくよう手を振った。仕方なく部屋に行ってスマイルは窓枠に寄りかかりながら腰をおろす。そうしてカーテンの隙間から窓の外を眺めた。
どんよりと垂れ込めた雲のせいでまだ六時前なのに辺りは暗い。今にも泣き出しそうな空は梅雨時には当然の姿だったが、それでも心の内で、どうか帰るまで降りませんようにとスマイルは祈った。