体育館の黒いカーテンの向こうから元気なかけ声が飛んでくる。自前のラケットを小脇に抱えたまま、そっと足音を忍ばせてスマイルはカーテンを抜け、孔の姿を探した。すぐそばで孔は腕組みをしながら壁に寄りかかり、卓球部員たちが互いに球を打ち合うのを眺めていた。
「孔」
声をかけると、そばの台に着いていた生徒と一緒に、孔が振り返った。
「来たか」
孔はスマイルを手招きして呼び寄せると、眠そうにあくびをしながら、奥でテーブルに着く卓球部の顧問のところに案内した。
「藤田先生」
孔が声をかけると、レポート用紙になにやら書き込んでいた男が顔を上げた。
「この前話した、元片瀬の月本です」
「こんにちは」
スマイルが頭を下げると、藤田はどんぐり眼を更に大きく見開いてじっと顔をみつめてきた。そしていきなりポンと手を打ち、
「おお、見覚えありますよ。インハイの予選で準優勝した月本くんですよね」
「二年も前の話ですけど」
「いやいや、たいしたものですよ。本戦でもかなり上位に残ったんじゃありませんでしたっけ」
自分の倍ほども歳を取っていそうな教師に敬語を使われることが既にくすぐったくてたまらない。はあ、と呟いてスマイルは曖昧にうなずいた。
「岡野を見てもらう。いいですか」
「勿論ですよ。こっちからお願いしたいぐらいだ。おーい、岡野!」
藤田はにっこりと笑って体育館のなかに散らばる部員のなかから、とある部員の名を呼んだ。岡野と呼ばれた生徒は打ち合いの手を止めて、こちらに向かって走ってくる。ほかの部員たちも、突然の闖入者を訝しがっているようだった。
「はい」
やって来たのはまだあどけない顔の、小柄な少年だった。
「こちらは月本さんと言ってな、とても優秀な方だ。孔コーチが特別に呼んでくれたそうだ。今日一日、いろいろと教えてもらえ」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
互いに頭を下げあって挨拶を済ませると、孔に連れられて岡野が打っていた台へと戻る。
「月本は二年前に全国でベストエイトに残った。悔しいが私より上手い。岡野と同じカットマンだ。なんでも聞け」
「ベストエイト!? すごいですね」
孔の言葉に岡野は目を輝かせた。スマイルはその視線に照れて、ごまかすように口を開いた。
「岡野くんは攻めるの得意な方? それとも守り一徹?」
「守る方です。あんまり打ち込むのは得意じゃなくて…」
「そうか。でも攻撃のバリエーションはあった方がいいよ。隙が出来ても打ち込めないんじゃ、勝ちを譲ることになるからね」
とりあえずどんな具合なのか、それまで打ち合いをしていた部員と試しに試合をしてもらうことにした。
「十ポイント先取で終了してください」
それだけ言うと、スマイルはじっと岡野の動きを見守った。
小柄な体ながらよく走る子だった。守るタイプだと言うだけあって、なかなか粘り強い。ただ多少の気の弱さが垣間見える。まるで昔の自分を見ているかのようだった。
――孔の奴、嫌味か。
スマイルは思わず苦笑する。
結局十対六で岡野が勝った。まだ続けられるかを確認してから、今度は相手の戦型を変えてもう一試合してもらった。十対八で岡野の勝利。
「どうだ?」
孔に聞かれながらも、スマイルはしばらく考え込む。
フットワークは悪くないが、カットマンに必要不可欠な基礎体力が若干足りない。そのせいで時折足がもたついている。チャンスボールを打ち込もうかどうしようかと迷う悪い癖も見える。
「あのさ、」
口を開きかけて、ふと言葉を止めた。一体どこまで求めて良いものなのだろう。困ったスマイルは、とりあえず孔に確認することにした。
「岡野くん、次の試合っていつ? 今の時期だと、インハイの予選は終わったから、秋の地区大会かな」
「いや、夏だ。インターハイ」
「――は?」
「全国だ。個人で出場する」
「…じゃあ、一人だけ全国に出る二年生って」
「岡野だ」
そう言って孔はにやりと笑う。
「だから言った。私では限界がある」
「お前、最初っからそのつもりで…!」
「月本ならいいコーチをする、そう思った。だから連れてきた。それだけだ」
それがなにか? そんなふうに見上げられて、スマイルは言葉を失った。まさかそんな重要な役だとは思いもしなかった。思わず呆気に取られて、それでも、今更帰るわけにはいかない。
「ええとね、岡野くん」
二人の会話を、スマイル以上に呆気に取られながら聞いていた岡野に、あわてて振り返った。
「走り込みとかしてる?」
「はい。一応五キロ走ってますけど」
「出来たら倍に増やして欲しいな。いきなり倍にするのは無理だと思うから少しずつでいいけど、もうちょっと体力がないと全国は辛いよ。動きはいいけど途中で疲れちゃって足がついてきていないんだ」
「はあ」
「あとは…そうだな、ドライブとスマッシュの打ち込みを増やそう。フォームは悪くないから、守る合い間にきちんと打ち込めばもっと確実に点が取れるようになると思う。その方が楽だよ、絶対」
「わかりました」
「どうせだ。試合してみろ、月本」
ラケットを持参しているのを見て、孔が素っ気無く言う。
「カットマン同士だと長くなるよ」
「時間はある」
そう言って孔はうなずいてみせる。仕方なくスマイルは靴下を脱いで裸足になり、準備運動を始めた。合い間に岡野は孔を相手に打ち込みの練習をする。体がほぐれると孔に頼んで少し打ち合いをした。鋭いドライブは相変わらずで、ふとスマイルは微笑を洩らす。
気が付くと部員たちが自分らの打ち合いを眺めていた。程度良く走り込んで体を温めると、いよいよ岡野との試合だ。
「手加減しろ」
耳元での孔のささやきに振り返ると、ひどく真剣な表情でうなずいている。過大評価しすぎだとスマイルは思ったが、とりあえずうなずいて返した。