「月本はなにをしている」
「僕? 別に、普通に大学通ってるよ」
「違う。今。傘差さないでなにをしている」
「…ちょっとね」
ふと、ドイツでも梅雨はあるのかなと考えてしまう。
「孔こそ、こんな雨のなかでなにしてたんだよ」
「……」
孔はすぐには答えずに、ふと海に視線を投げた。
「匂いを――」
「匂い?」
火をつけたばかりなのに、二口ほど吸っただけで、孔は煙草を砂のなかにうずめた。そうして吹き寄せる風を鼻ですぅと吸い込んで、
「海の匂い。中国と同じだ。時々来る」
「…ふうん」
孔は砂から出ている煙草の吸い口を指で弾いて遊んでいる。ぽつぽつと指に飛ばされる砂の行方をスマイルも同じように目で追っていたが、ふと視線を孔の背中に移して、はっとした。
痩せた肩の辺りが驚くほどペコにそっくりだった。あわてて視線をそらせたけれど、どうしても気になってついつい目が動いてしまう。
「大学で卓球をしているのか」
不意に孔がこちらを向いた。スマイルの視線とぶつかって、驚いたように言葉を止める。
「なんだ」
「――なんでもないよ」
ごまかすようにそっぽを向いたけれど、孔の視線が気になって口が開けなかった。その沈黙を別の意味に解釈したらしく、「していないのか」と孔が聞きなおした。
「うん…たまに、昔通ってた道場に行ったりはするけどね。今は全然」
「そうか。――星野はドイツで続けているな」
「…うん。今は一部リーグに居る」
まさかペコの名前が出てくるとは思わず、スマイルは動揺を悟られまいと重ねて口を開いた。
「三月に一度戻ってきたんだ。ビザの更新しなきゃいけなかったみたいでさ」
「こう…?」
「え?」
「ビザの、なんだ。なにをするんだ」
「こうしん、だよ。初めてビザ取ってから一年経つと期限が切れるからさ、また新しくビザを取り直すんだ。孔も上海に戻ってビザ取り直したりするだろ」
「しない。東京で出来る」
「そうなんだ」
「出来る。だから戻らない。――星野は元気か」
「元気だったよ…」
思い切り泣かせてしまったけれど。
孔はふと煙草に手をやって、少し考えてから、箱ごと砂にうずめて立たせると吸いもしないままそれをみつめた。
「煙草、吸うんだね」
「時々。…あまり美味くない。だけど、時々吸う」
「美味くないのに吸うんだ」
「…嫌な時に吸う。嫌なことを少し忘れる」
そう言って寂しそうに孔は笑った。
「だけど、また思い出す。また吸う。やめられない」
「堂々巡りだね」
「星野は頑張っているな」
突然孔が話題を戻した。そうだねと呟きながらも、そんなにペコのことばかり話すなよとつい文句を言いそうになった。
痩せた肩が気になって仕方がない。
「私とは違う。才能のある人は、いい」
「才能ねえ」
「何故、続けない。月本も才能ある」
「――ないよ、そんなの」
ついぶっきらぼうに返してしまった。孔が少し驚いたふうに見ているのがわかったけれど、すぐには言いつくろうことが出来なかった。
何故だと? そんなのは簡単だ。自分はペコとは違うからだ。
卓球に人生が賭けられなかったからだ。
気まずい空気が流れていながら、スマイルは口が開けなかった。せっかく忘れようとしているところなのに、何故こうもみんなが自分を責め立てるのか。苛立ちを砂と共に握りしめて、スマイルは雨のなかへと放り込む。
――ペコは今なにしてるんだろう。
考えまいとすればするほど、意識はそちらへと向いてしまう。抑えていた寂しさが再び心のなかでざわめき始める。
気まずい空気に戸惑ったように、孔はまた煙草の箱に視線を落としている。何故ここに居るのがペコじゃないんだ、八つ当たりのようにスマイルはそう思って、思いながらどうしても我慢し切れずに、とうとう腕を伸ばしてしまう。
「つき…っ」
「ごめん」
謝りながらも、孔の体をぎゅうと抱きしめたまま、スマイルは歯を食いしばり、静かに静かに息を吐く。思った以上にペコと体つきがそっくりで、それは自分を慰める為の行為だったのに、むしろ余計に寂しさを募らせる羽目になってしまった。
孔はじっとして動かない。
何故ここに居るのがペコじゃないんだ、スマイルは再び苛立ちと共にそう思う。ただここにペコが居れば、それだけでいいのに。
望みはそれだけなのに、そのたった一つの望みがいつも叶わない。
ためらいがちに孔の腕が背中に回された。まるで泣いている子供をあやすかのように、軽くぽんぽんと叩いてくれる。この腕のなかにあるのはペコの体ではないのに、それでも自分以外の温もりは気持ち良かった。しがみつくようにして孔と抱き合ったまま、しばらくのあいだ二人は無言で居た。
雨がまた強くなったようだ。
足元に雨粒が降りかかっているのに気付いてスマイルはようやく孔の体から腕を離し、無言で足をしまいこむ。
「…ごめん」
かすかな声で、スマイルはうつむいたまま呟いた。伏せた目のなかで孔はだらりと腕を下げたまま動かない。目を上げると、別にこれといった反応もなく、それがなにか? というような落ち着いた視線をこちらに投げていた。
孔の目玉は真っ黒で、まるでビー玉でも埋まっているかのようだった。
「雨、降ってきたね」
ごまかすようにスマイルは呟いた。言われて初めて気付いたというふうに、孔は宙に視線を投げて、「そうだな」と答える。
「月本、腹の具合はどうだ」
「――お腹空いてるかってこと?」
孔はうなずいて返す。
「少しね」
「酒でも、飲むか」
そう言って微笑んだ。慰められているのがわかって少し恥ずかしかったが(なんだか弱みを握られたような気分だった)、それでも、その申し出は有り難いと感じた。「いいよ」と呟き返してスマイルは立ち上がる。煙草の箱を手にしながら、今度は孔の方が少し驚いたような顔をしてふと動きを止めた。
「なに?」
「――別に」
ごまかすように呟いて孔は傘を手にする。小さなビニール傘のなかで肩を寄せ合いながら、孔も同じなのかなとスマイルは考えた。
自分に、別の誰かを見ているのか。
すねに傷を持つ者同士が、激しくなり始めた雨のなかを駅へと向かって歩いている。波が打ち寄せる砂浜は雨でかすかにけぶり、水平線はぼんやりかすんでしまって見ることが出来ない。