また霧雨が降り始めた。
 スマイルは雨から逃げるかの如く堤防に添うようにして砂浜をぼんやりと歩いているが、勿論そんなことで雨が防げる筈はなかった。ゆるやかな風に乗って宙を舞う小さな雨粒は、降るというよりも漂いながらどこか着地地点を探して戸惑っているように見えた。
 ――なんで傘忘れたんだろう。
 家を出た時はきちんと傘を差していた。今よりももう少しだけ強く降っていたので、当然のように駅まで傘を差し、改札口でたたみ、江ノ電のなかに持ち込んだ。戸口に立って手すりに傘をかけ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。そうしてそのまま電車を下りて、気が付くと傘が手のなかになかった。
 濡れた道路を見て初めて傘のことを思い出したが、電車は既に発車していた。どうせビニール傘だから構わないが、それでもわざわざ梅雨のこの時期に、しかも朝から雨が降り続いているこんな日に、どうして傘の存在を忘れられるのだろう。そうしてなお雨に濡れながらこんなふうに砂浜をさまよっている自分があまりにもバカバカしくて、スマイルはつい苦笑を洩らす。
 六月も終わりを迎えようとしている。三ヶ月も前にペコは再びドイツへと旅立った。ビザの更新は上手くいったようで、今度の更新は二年後だそうだ。つまり何事もなければ丸二年は帰ってこないという意味である。
『あと一年だけ迷惑かけさせて』
 ビザ更新の為に戻ってきたペコに、スマイルは約束してしまった。大学二年であるこの一年間のうちに、将来なりたいもの、あるいはなにか打ち込めるものをみつけてみせる、そうスマイルは言ったのだ。
 高校を卒業すると同時に卓球は辞めてしまった。嫌になったわけではない。今でもたまにタムラで馴染みの客と打ち合うことがあるし、コーチのような仕事をすることもある。進学の時に、うちの大学で卓球を続けないかとあちこちから誘われもした。二年連続でインハイに出場し、かなりの好成績を残しながら、それでも結局のところ、自分にとって卓球はただの暇つぶしに過ぎなかったのだ。
 暇つぶしに人生は賭けられない。ペコとは違う。昇れないことがわかっているのに、わざわざ届かない階段に無理やり足をかけようとしてケガをするほど愚かではないつもりだった。
 ただ卓球に関わった時間は長い。十年間続けたものですら暇つぶしにしかならなかったというのに、たった一年でそれ以上のものが本当にみつけられるのか、その自信はなかった。
 それでもみつけなければいけない。そうしなければ自分が辛いだけでなく、ペコに迷惑をかけることになる。ペコが居なくなったらまるでこの世の終わりが来るとでもいうふうに恐れていた自分と、どうにかして決別しなければ。
 だけど。
『――別れよっか』
 本当にペコのことを嫌いになれたらどれほど楽だろう。二度と会いたくないと思えるほどに、自分のなかからその存在を消してしまうことが出来たらどんなにいいか。
 ――なんであんなこと言っちゃったんだろ。
 スマイルはふと強い後悔の念にさいなまれ、歩く気力を失い、雨のなかだというのに砂浜にかがみこんだ。そうして黒く濡れた砂の表面をみつめながら、いつものように、今ペコはなにをしてるんだろうと考えてしまう。
 強がってみせたところで、結局はなにも変わっていない。相変わらず自分はただの臆病者で、手のなかにしがみつくものがないと不安でたまらない。どうにかしてペコをこの手に戻す方法はないかとひそかに考えをめぐらせ、失わずにいるにはどうしたらいいんだろうと――自分だけを見させておくにはどうしたらいいんだろうと、バカな想像ばかりしてしまう。
 そんな自分が嫌で、ペコに一年の猶予を求めた筈なのに。
 スマイルは小さくため息をついてゆっくりと腰を上げる。そうしてまた歩き出しながら、すぐに足を止めた。
 要はペコにばれなければいいだけの話だ――スマイルは卑怯にも考えた。
 本当にみつける必要はどこにもない。ただペコの前でだけ平気な顔をしていれば、それで済む話じゃないか。そうしてペコが安心してくれれば、それでいい。どのみち自分が辛いことに変わりがないなら無理をする必要はない。
 ――そうか?
 違う、ような気はする。けれど、どっちみちペコを失うことになるなら、ペコが本当に自分を気にかけなくなるなら、全てがどうでもいいようにも思えた。
 ただ――。
『笑えよ』
 きっと、また笑えなくなる。そんな気はする。
 ――それじゃあ意味がないんだよ。
 スマイルはまたかがみこんで、ふと砂を握りしめた。濡れてじゃりじゃりと音のするそれをぎゅうと固めては近くに放り投げる。子供のようにそんな意味のない行為を続けながら、砂浜に打ち寄せる波の音を聞き、その合い間にふとペコの声を聞く。
『この星の一等賞になりたいの、卓球で俺は! そんだけ!』
 波に負けないような大声で海に向かって叫んでいたペコの姿を、スマイルはふと思い出す。そして、同じだ、と思った。
 自分はやっぱりなにも変わっていない。どうしたって前へ進むことは出来ないような気がする。こんな自分が本当に大人になることなど出来るのだろうか。本当に社会に出て平気で過ごせるのだろうか。一体いつまで全てを我慢すればいいんだろう。
 一体、なにを我慢してなにを我慢しなければいいんだろう。
 ペコに会いたいと思い、会えないのが辛い、それが唯一自然に感じる自分の気持ちなのに。それを我慢しろなんて、
 ――なんか矛盾してるよな。
 雨はいささか激しくなってきていたが、立ち上がる気力が出ない。うつむいたまま無心になって砂を掘っては放り投げる。そんなことを繰り返しているうちに、ふと鼻先で煙草の匂いがした。
 顔を上げると、こんな天気のもとで散歩をしている仲間の姿が目に入った。雨のなか、透明のビニール傘を差して、くわえ煙草でぼんやりと波打ち際を歩く若い男の姿がある。暇な人間は自分だけじゃないんだなとふと思い、スマイルは男の顔をみつめた。
 どこか見覚えのある顔だった。
 男は歩く拍子に煙草の灰が落ちるのも気にかけていない。まるで自分が煙草をくわえていることなど知らないかのようだ。それでいてふと立ち止まり、灰色の雲を背負った海原をみつめた。波の音に耳を澄ませ、なにかを振り切るように顔をそむける。そうしてスマイルが座り込んでいる方向へと、また歩き出す。
 ようやくスマイルの姿に気付いて、ちらりとこちらを見た。
 顔は覚えていた。だが名前が思い出せなくて、スマイルはふと眉根を寄せる。男も同じようにこちらをみつめて立ち止まった。そうして、恐る恐るといったふうに近付いてきて、五メートルほど手前で立ち止まる。
「月本か」
 ぎこちない言葉だった。スマイルは手にこびりついた砂を払い落とし、メガネに張り付いた雨粒を袖で拭き取りながら立ち上がる。そうして、あらためて男をみつめ、
「孔か?」
 ようやく安心したとでもいうふうに孔は小さく笑い、くわえていた煙草を手にして歩きながら傘を差し出してくれた。
「なにをしている、こんなところで」
「それはこっちの台詞だよ。――まだ日本に居たんだ」
 どちらからともなく二人は歩き出し、道路からせり出している階段の下へと避難した。乾いた砂の上に腰をおろして、身をひそめながら互いの身の上話に興じた。
「そっか、辻堂学院でコーチしてるんだ」
「この前、予選が終わった。個人戦。一人だけ、全国に出る部員が居る」
「何年生?」
「二年。準決勝で負けた。ベストフォーだからぎりぎりだった。だけど、全国へ行く」
「すごいな」
 素直に驚くと、孔は嬉しそうに微笑んだ。そうしてジーパンのポケットから煙草を取り出して火をつける。煙草を吸うのがひどく意外な気がしてついじっと手元をみつめてしまう。その視線に気付くと、孔はごまかすようにそっぽを向いた。


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