それでもやっぱり帰らなければならない日はやってくる。ビザを更新しておかないと不法滞在となり、国外追放されてしまう。いくら帰るのが嫌だといっても、さすがに犯罪者になる気はさらさらなかった。
うわさで、近いうちにドイツ国内でビザの延長が出来るようになるらしいという話を聞いた。なんでそれが今じゃねえんだよと八つ当たりのように思ってしまうのは、やはり帰国を恐れていたせいだろう。
パリ経由で長い時間機上の人となり、成田空港から自宅へとたどり着く頃には、時差と長旅のお陰でへろへろになっていた。ドイツより日本の方が八時間先に進んでいる。体はドイツに慣れていてまだ夜中に居る気分なのに、江ノ電を下りると太陽が輝かしく大地を照らしている。寝ようと思ってまばたきをした瞬間に朝を迎えてしまったような、おかしな気分だった。
とりあえず帰国初日は自宅でおとなしくしていた。久し振りに母親の手料理を食い、酒を飲み、風呂に浸かってぐっすりと寝た。
翌日さっそくドイツ大使館へ行き、ビザの申請をする。土日をはさむので早くても一週間はかかると言われたが、覚悟はしていたので素直に待つことにした。帰り際、少しタムラに顔を出して、オババと軽口を叩き合った。一部リーグへの移籍の話は既に伝わっていたらしく、「まあ頑張れよ」と素っ気無く応援してくれた。家に戻ると雑誌社から取材したいと申し込みがあったそうだ。折り返し連絡をして、翌日の午後受けることにした。
スマイルの家へ寄ったのは、その取材を受けた帰りだった。
片手に小さな箱を持ちながらペコはスマイルの家の呼び鈴を押す。時間的にはスマイルの母親は仕事へ出てしまったあとであり、これでスマイルが居なければ誰も出る筈はない。半分以上、どうか居ませんようにと無意識のうちに祈りながらペコは待った。
だが彼は居た。
「はい」
無造作に返事をしながら扉が開けられた。一年振りに聞くスマイルの声だ。まっすぐ顔を見るのが怖くて、ペコはうつむいたまま扉の向こうのスマイルの足をみつめた。
「…ペコ?」
「――ただいま」
そう言って手に持つ箱を差し出した。
「土産」
「ありがとう…えと、お帰り」
「うん」
顔を上げると、ぎこちない笑顔でスマイルが自分を見下ろしている。
「上がりなよ」
「ん…」
一年振りに会ったせいか、お互いおかしな緊張感に包まれていた。スマイルのあとに続いて家のなかに入り込みながら、ちっとも変わりのない内部の様子に何故か安堵した。上着を脱いで居間に腰をおろすと、「何か飲む?」とスマイルが聞いてくる。
「ああ――なんかあったかいの、くれ」
「コーヒーでいい? インスタントだけど」
「なんでもいいよ」
恐々とテーブルの下で足を伸ばしながらペコは言葉もなくスマイルを待つ。
「いつ帰ってきたの?」
「一昨日。昼過ぎに家着いたんだけど、時差でなんか頭がおかしくってさ」
「へえ。時差って何時間」
カップを両手に持ってスマイルが台所からやってきた。
「八時間。あ、だけど三月の最後の日曜からサマータイムに変わるから、十月の終わりぐらいまでは七時間」
「そっか、海外はそういうのがあるんだね」
ペコはカップを受け取って砂糖を放り込む。かちゃかちゃとわざと音を立てながらスプーンを回し、なんとか静けさを消そうと頑張った。けれどテレビもラジオもついていない空間のなかで、その物音は余計に静けさを引き立てるだけのことにしかならなかった。
あきらめて、やがてスプーンを置く。
「開けていい?」
ペコから受け取った箱を持ってスマイルが聞く。いいよ、と答えると、器用な手付きで包装紙を開け始めた。なかから出てきた木箱のフタを開けると、スマイルは少し驚いたように手を止めた。
「ドイツといえばゾーリンゲン、ゾーリンゲンといえばヘンケルス。…あんま、使うことないかもしんねえけど、なんかほかにいいのなかったし」
「――え? ヘンケルスって…?」
「ゾーリンゲンってただの地名なんだと。俺も向こう行って初めて知ったんだけどさ。刃物扱ってる会社の名前はヘンケルスっつうんだって」
ペコの説明を聞きながらスマイルが木箱から取り出したのは、折りたたみ式の小さなナイフだった。折ったままならすっぽりと手のひらに隠れそうな大きさで、伸ばしたナイフの刃は窓からの光を受けてきれいに輝いていた。
濡れたようなナイフの刃をみつめて、
「ありがとう」
初めてスマイルは嬉しそうに笑った。ペコは照れてなにも答えないままコーヒーを飲んだ。
「一部リーグに移籍するんだってね」
ナイフを箱に戻しながらスマイルが言う。
「おお。今度ハノーバーに引越しすんだ。部屋はもう決めたんだけど、ビザとってからでねえと落ち着かねえと思って、まだほってある」
「大変そうだね」
「まあな。でも…まあ、なんとかならぁ」