「美味かったな」
「うん」
 冷えた空気が火照った体に心地良い。スマイルは熱いため息を吐いてゆらゆらと首を振った。
「酔っ払いましたか」
「うん…ちょっとね」
「相変わらずよえぇなあ」
 そう言ってペコはけらけらと笑う。
 気持ちをごまかす為に、言葉を飲み込む為に、確かに酒が進んだ。なにかを口にしていないと、つい泣き言を洩らしてしまいそうだった。
 別れの時が近付いてきている。本当は見ないフリをして、知らないうちに消えてしまってもらいたいぐらいなのに、誰もがわざわざ教えてくれる。
 覚悟しろ、と。
 ――覚悟してるつもりだったんだけどなぁ。
 酔いの回った頭でそう考えながら、スマイルは江ノ電の改札口を抜けた。
 電車のなかは空いている。座席に並んで腰かけて、スマイルはふとペコにもたれかかった。
「――先生、重いです」
「うん…いつものお返し」
「んにゃろ」
 苦笑しながらも、ペコはされるがままだった。
 駅に着いて電車を下りると、二人はのんびり家路を行く。
「お前、ホントに大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 そう答えておきながらスマイルはふと振り返り、
「なにが?」
「わかんねえで答えんなっ」
「だっていきなりだったから…」
「足がふらふらしてんすよ」
 そう言って呆れたようにスマイルをみつめた。
「じゃあ介抱して」
 スマイルはそう言いながらペコの手を握った。ぎゅうと握りしめて、子供のような甘えた目でペコを見る。
「うち連れてって」
「だーもぉ、しょうがねえなぁ」
 ペコはスマイルの手を引っぱるようにして人通りの絶えた道を行く。どのみちスマイルの家はペコの家までの通り道にある。ついでといえば、まあついでだ。
「おめぇみてえにでけえガタイで、んな甘えた声出したってかわいくねぇぞ」
「知ってるよ」
 玄関先でスマイルはズボンのポケットから鍵を取り出した。そのあいだも、ずっとペコの手にしがみついたままだ。
「ただーいまー」
 誰も居ない真っ暗な家のなかに向けてそう言うと、スマイルはペコを連れたままずんずんなかへと入ってゆく。
「…俺、帰りてぇんだけど」
「帰るの?」
 意外だといわんばかりの顔で振り返ると、ペコは初めて困ったような顔をしてみせた。
「いや、一応帰るって言っちまったし」
「……わかった」
 そう言いながらも、スマイルはなかなか手が放せなかった。こういう時にすぐあきらめきれない自分が、スマイルは本当に嫌だ。
「――はっきりしろよ」
「え?」
 顔を上げると、いささか怒ったような表情をしてペコが自分を見ていた。
「何度言わせんだよ、言いてぇことあんならはっきり言えよ」
「うん…」
「お前がそんなんだと、俺、心配でドイツ行けねえじゃんかよ。どうすんだよ高い金払って飛行機予約して、わざわざビザとって準備万端で、あとは行くだけだっつうのに、全部無駄になるんだぞ」
「…うん」
「お前のせいだかんな。俺がどんだけ苦労して英語勉強したと思ってんだよ」
「…そうだね」
 スマイルは手を握ったまま、恐る恐るもう片方の手を伸ばしてそっとペコの頬に触れた。逃げないことを確かめてから、
「そうだよね、ずっと行くって決めてたんだもんね」
「そうだよ。俺の夢邪魔すんなら、容赦しねえぞ」
「うん…」
 不意にペコが手を払った。びっくりして後ろへ下がると、突然ぎゅうと抱きついてくる。
「笑えよ」
「……」
「笑ってくれよ。お前が寂しいのはわかってんだよ、俺だって寂しいよ、お前に会えなくなるのはさぁ」
「…うん」
 そっと手を伸ばしてスマイルはペコの体を抱きしめる。痩せた肩に顔を乗せて、じっと立ち尽くしたまま、ペコの体温を感じていた。
「お前が、んな、いつまでも寂しそうな目ぇしてっとよ、俺は向こうへ行ってもお前の心配しなきゃならないわけよ」
「うん」
「お前のことが心配でさ、入団テスト落っこちたらどうしてくれんだよ。俺、泣くに泣けねえじゃんか」
「ペコなら大丈夫だよ」
「そう思うんなら俺を心配させんな! あーちくしょう、ホントに腹立ってきた! てめぇのせいだかんなスマイルっ」
 そう言ってペコは顔を上げるとスマイルを睨みつけた。
「言いてぇことあんなら、はっきり言え!」
「――好きだよ、ペコ」
「おお、俺もだ」
「ドイツでてっぺん取ってね」
「あたぼうよっ」
「今日帰らないで」
「わかった」
 言い切ったペコの顔をみつめて、スマイルはふと笑いを洩らした。そうしていつの間にか二人はくすくすと笑いあい、互いの体を強く抱きしめていた。
 ――終わりの時は、必ず来る。
 こうして手のなかにあっても、必ずいつかは居なくなる。
「ペコ」
 声も、吐息も、体温も、こんなに近くにあるのに。
「ん…」
「…ペコ、大好きだよ」
 いつかは消えてしまう。
 消えてしまうのだ。


back シリーズ小説入口へ next