小泉の自宅はなだらかな丘の麓にある。閑静な住宅街、といえば聞こえはいいが、要は家以外になにもないだけの話だ。それでも共に還暦を迎えた老齢の夫婦が暮らすにはいい環境だといえる。
 物干し台の脇を通り過ぎて玄関に向かいながら、スマイルはふとペコを振り返った。小泉の自宅に来るのが初めてのペコは、庭の片隅に置かれた自転車の空気入れですら珍しそうにいちいち眺めて通り過ぎる。
「けっこー立派な家じゃん」
 庭に面した縁側にダイコンが干してある。不意に軒下から真っ白な猫が姿を現した。二人の姿を目にして驚いたように足を止め、門からあわてて逃げていった。飼い猫ではないようだ。
「こんばんは」
 横開きのドアを開けながらスマイルは奥に声をかけた。「はいはい」という懐かしい声がして、チョッキを着た小泉が姿を現した。
「良く来たね、さあお上がり」
「お邪魔しまーっす」
 ペコは靴を脱ぐと恐る恐るといったふうに玄関に上がった。
「先生、久し振りっすね」
「ああ。元気でやっていたか?」
「もちっすよ」
 そう答えながらペコは、小泉の胡麻塩頭を不思議そうにみつめた。
「先生、老けた?」
「バカ」
 スマイルは思わず苦笑を洩らした。ペコの視線に気付くと小泉は照れたように頭に手をやり、
「学校へ行っている時は染めていたんだ。最近はなんだか面倒でね、ほったらかしだよ」
「なんだ、いきなりやることなくなって急に老け込んだのかと思った」
「まさか。学校へ行っている時の方がもっと白かったんだよ。手を焼く生徒が多かったからね」
 そう言ってペコを見ながらにやりと笑う。
「まあでも、私の教え子からこんな立派な生徒が二人も出たんだ。私も苦労のしがいがあったというものさ」
「僕は、別に…」
 一度も立派であったことなどない。そう思って、ふとスマイルは言葉を飲み込んだ。
「あら、いらっしゃい。待ってたわよ」
 台所に入ると小泉の女房が笑顔で迎えてくれた。テーブルには鍋が置かれて、ふたの隙間から熱い湯気が吐き出されている。
「四人限りの寂しい壮行会だがな、まあ今日は存分に食べてくれ」
「ういっす。いただきまっす」
「いただきます」
 箸を取ると、小泉の女房がグラスにビールを注いでくれた。
「本当はいけないけどね、今日ばかりは特別だ」
「うひゃー、そうこなくっちゃ」
 嬉しそうにグラスを受け取りながらペコが叫んだ。スマイルは笑いながらグラスを合わせて一口飲み、首の後ろに回るかすかな酔いの予感に身を任せた。
「出発はいつなんだ?」
 テーブルの向かいに座った小泉がペコに聞いた。
「二十六日っす。二十九日に二部リーグのチームで入団テスト受けるところがあるんで」
「そんなにすぐなのか」
「ほかにも幾つか受ける予定だから結構きつきつっすよ。ホントはしょっぱなから一部入りてぇんだけど、さすがにそれは無理じゃないかって」
「ドイツリーグは三部まであるんじゃなかったかな」
「そりゃありますけど、今更そんな下積み修行したくねぇし」
 二部リーグで実績を積んで、一年で一部リーグへ移籍するつもりだとペコは言う。
「とはいえ、本当にトップクラスの選手が集まるところだからね。気を抜いたらすぐに足元をすくわれるよ」
「わぁってますって」
「ペコなら大丈夫ですよ」
 穏やかに微笑みながらそう言ったスマイルをみつめて、小泉も笑い返した。
「そうだな」
 酒が進むにつれて話題も広がる。何故か小泉夫婦の馴れ初めの話を締めに、ささやかな壮行会が終了となった。
「泊まっていってもいいのよ」
 先に眠そうな目をしているスマイルを見て、小泉の女房がそう言った。だがスマイルは首を振った。
「帰ります」
「そお? ちゃんと帰れる?」
「俺が送ってきますよ。玄関開けて放りこんどきゃ、平気っしょ」
「せめて毛布ぐらいはかけてやれ」
 ペコの言葉に小泉は苦笑する。
「元気でな」
 別れ際、門まで見送りに出てくれた小泉が、ペコの手を握ってそう言った。
「君の活躍を期待しているよ」
「あっという間に一部リーグ行って、てっぺん取ってみせますよ」
「ああ。楽しみにしている」
「また来てね」
 小泉の女房の言葉に、スマイルは小さくうなずいた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 手を振りながら、オシドリ夫婦はいつまでも二人を見送ってくれた。


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