ペコが潤んだ瞳で自分を見上げている。腕にしがみつくペコの手はひどく熱くて、わずかに開いた唇がまるで誘うように濡れていた。スマイルはそこへ自分の唇を重ねて、その奥に隠れているやわらかなペコの舌を探る。快楽の為か苦しみの為か、ペコは時折鼻にかかった甘い声を洩らしては爪を立ててスマイルを誘う。
腰を動かすとあられもない嬌声がその口から洩れて、もっと激しくその声を聞きたいという狂おしいほどの欲望を掻き立てられる。このままずっと一つで居ることが出来たら、どれほど幸せだろう。結局は別々の存在にならなければいけないのだという事実が、いっそう二人のつながりを強いものにする。
明けない夜はなく、やってこない朝はない。最後の時を惜しむかのようにスマイルは強くペコの体を抱きしめ、そのはかない声にいつまでも耳を澄ませている――。
「スマーイル」
オババの声にスマイルは我に返った。ぼんやりと床をみつめていた目を上げると、苦虫を噛み潰しているかのような表情のオババがモップを片手に、座り込んだままの自分を見下ろしていた。
「頼むから一人でにやにやすんのやめてくれ、気色わりぃ」
「そんな顔してた?」
「鏡見てみろよ。だらしねぇな」
ごまかすようにスマイルは小さく咳をして顔を撫でる。
「大学受かって嬉しいのはわかるけどよ、銭取るんならきちんと仕事してくれ」
そう言ってオババはモップをスマイルに向かって突き出した。はいはいと呟いてスマイルはモップを受け取り、イスから立ち上がる。
タムラのなかは子供たちの姿であふれ返っている。春休みが近いせいで子供たちも学校が引けるのが早いのだ。一足先に卒業式を迎えて自由の身となったスマイルは、気まぐれのようにタムラに足を運んでは臨時の雇われコーチをしていた。
とはいっても本当に臨時なので、特に決まった生徒を持っているわけではない。時たま教えて欲しいと子供の方が言ってくれば指導する程度のもので、自分でもあまり指導の仕方に熱がこもっていないことがわかっていた。それを見てなのか、オババも臨時の冠をはずすことはしなかった。
「お前、今日用事あるとか言ってたな」
貸し出し用のラケットのラバーをチェックしていたオババが、ふと顔を上げてスマイルに聞いた。
「うん。悪いけど六時で上がる。小泉先生の家に行くんだ」
「なにしに」
「ペコの壮行会。来週ドイツ行くって言ったら、わざわざ先生が呼んでくれて」
「そうか、行くの来週か…」
オババは煙草に火をつけてなにか考え込むかのように深く吸い込んだ。
「このあいだ雑誌の取材受けたって言ってたよ」
「へえ、そりゃすげえな」
「なんだかいきなり遠い人になっちゃったみたいだね」
「ふん。私にとっちゃあ今も昔も、ただの洟垂れ小僧だがな」
オババらしいその言い種に、スマイルは思わず苦笑を洩らす。
勉強嫌いのペコではあったが、それでもなんとか片瀬高校を卒業し、日常会話がこなせる程度までに英語力も上がった。既にパスポートを取得して、今日ドイツに長期滞在する為のビザを取りに行っている筈だった。帰りに駅で待ち合わせをしている。
――本当に行っちゃうんだな。
いつかは必ずその日が来ることはわかっていたが、いざ来週までに近付いてみれば、もはやどうすることも出来ないという無力感に襲われた。泣いて引きとめたところで無駄なことはわかっている。せめて笑って送り出してやろう。そう思う癖に、やっぱりスマイルは寂しくてたまらない。
『一生帰ってこねぇわけじゃねえんだし』
ペコの、呆れたような言葉を思い出す。
確かにそれはそうだ。死ぬわけでもないし、もう二度と会えないわけじゃない。それでも、遠い国へ行ってしまう。容易に会うことが出来なくなる。空の果てを眺めて、ペコは今なにをしているんだろうとただ静かに思うばかりの日がやってくる。
離れるのは、やっぱり辛い。
好きだと言ってくれた。想いが通じ合えたことが嬉しくて、スマイルは静かに泣いた。好きになればなるほど別れの時が恐ろしい。ペコが居なくなっても平気な顔をしていられるだろうか。会いたくなって一人でまた泣くのではないだろうか。
ペコを応援したい気持ちにうそはない。昔から迷いもなく先へと進む、そんなペコが好きだった。だからこれは喜ばしい一歩である筈だった。
せめて、笑って送り出してやりたい。ペコの邪魔になるぐらいなら、いっそのこと、消えてしまった方がいい。そう覚悟を決めながらも、時が近付くにつれて、どこか決意がゆるむのをスマイルは感じていた。
やってきて間もない子供にサーブの指導をしているうちに、六時になった。「また教えてね」という子供の言葉に曖昧な笑顔を返して、スマイルは上着を羽織る。
「スマイル、ペコによ、向こう行く前にいっぺん顔出せっつっといてくれ」
「わかった」
じゃあね、と呟いてスマイルはタムラを出た。昼間は暖かい癖に、日暮れの頃になるとやはりまだ寒い。あわててジャンパーの前をかきあわせて駅へと向かった。
改札口をくぐるとホームのベンチに、人待ち顔のペコが居た。
「待った?」
「いんや」
ガムを噛みながらペコは首を振る。
「オババが、ドイツ行く前に一度顔見せろって」
「んあ? 今更オババのツラなんざ拝んだってしょうがねえんだけどな。ま、いっか」
やって来た電車に乗り込みながらペコは笑う。
「愛弟子と離れんのが辛いのかね」
「…そうだよ、きっと」
呟いて、スマイルは窓の外に視線を投げた。
流れる景色の合い間にふとハクモクレンの花が見えて、もう春なんだなとスマイルは思う。じきに桜が咲く。ペコはそれを見ることが出来るのだろうか。
「スマイル」
ペコの呟きに振り返ると、いささか苦い顔をしてこちらを見上げていた。「なに?」と聞くと、
「…なんでもね」
「なんだよ」
「うっせ。教育的指導」
そう言って不意にでこピンをかましてきた。