去年のことがうそのようだ、コンビニからの帰り道、歩きながらスマイルは考える。
 一年前は小泉と一緒になってひたすら特訓の毎日だった。高みを目指すということの意味がどういうことなのかぼんやりとわかりながら、心のどこかでこれは違うなと感じていた。なにが違うのかは自分でもはっきりしない。ただ小泉と自分が目指す場所は、確実に違っていた。
 挫折した者、追いつけなかった者、そして走り続ける者。インハイの予選でペコに負けた時、小泉は残念そうに笑いながら、それでも満足しているようでもあった。本物の才能を目の当たりにして、ようやく自分に対してあきらめがついたとでもいうような表情だった。そしてそれは、スマイル自身にもあてはまる。
「いよっ」
 途中でペコと出くわした。酒瓶の入った紙袋を小脇に抱えて、前と同じようにつまみの詰まった袋を手に提げている。
「タイミングいいな」
「神様のお導きぃ」
 ペコの言い種に、スマイルは小さく笑った。
 ――本当に、追いつけない。
「はい、プレゼント」
 無造作にスマイルは手に持つ袋を差し出した。受け取ってなかをのぞいたペコは歓喜の声を上げる。
「うひゃー! だからスマイルって好きー!」
「はいはい」
 思わず苦笑が洩れた。
 袋にはコンビニに置いてある駄菓子が山と詰まっている。ペコへのプレゼントなら、これが一番だ。
 ――安上がりな人だな。
 少し呆れたようにスマイルは思った。ペコはさっそく中身を取り出して包装紙を剥ぎ、口に放り込んでいる。
「今日はシチューだけど、それでいい?」
「食わせてもらえれば、文句はねっす」
 家に着き、なかに上がると、とりあえずスマイルはファンヒーターのスイッチを入れた。少し留守にしていただけなのに、やはり家のなかは冷えている。
「さすがにさみぃな」
「部屋で食べる? まだ部屋の方が暖かいと思うけど」
「そうすっか」
 食えりゃどこでもいいし、とペコは呟いている。
「お前、この前の三者面談、どうだった?」
 袋の中身をテーブルに空けながらペコが聞く。
「どうって…別に。普通だったけど」
「進学すんのか」
「一応ね。ペコは?」
「ドイツ行くって言ったら、担任の野郎、呆れてた」
「柴田先生だっけ、ペコの担任って」
 現国担当の柴田は穏やかな性格ながらひどく真面目な男で、なかなか自分の常識をはずれたことを理解するのが難しい頭の持ち主だ。さもありなん、とスマイルは苦笑する。
「『お母さんもご承知なんですか』だってよ。うちは親公認なんだっつうの」
「行くのは卒業後だよね」
「面倒だけどな、しゃあねぇから卒業はしてやらぁ」
「ドイツにしたんだ」
 小さい頃からずっとヨーロッパへ行くとは言っていたが、場所が確定されたのは初めてだ。
「てっぺん取るにゃあドイツ以外にねえだろ」
 そう言ってペコはにっかりと笑う。
 ドイツのブンデスリーガは三部まであり、そのなかの一部リーグは世界最高峰と言われている。各国のトッププレイヤーが集まり、互いにしのぎを削りあう、まさに弱肉強食の世界だ。
「協会に問い合わせとかして調べてんだ、今。とりあえず入団テスト受けて、合格すりゃあチームに入れる。だけど合格してもそのあとの試合に勝ち続けなきゃなんねえし、負けりゃ呆気なく捨てられるってよ。日本から行く奴は滅多に居ねえし、居ても三部にも入れねえって言われた」
 準備を済ませて腰をおろすと、ペコがグラスに酒を注いでくれた。
「でも行くんだろ」
「あたぼうよ」
 一部リーグでトップになると言ってペコは笑う。きっとそうなるだろうとスマイルは考える。そうして、自分は日本でくすぶりながら、異国で活躍するペコの姿を眺めるだろう。
 ――いいな、ペコは。
 ふとそう思い、思ってしまう自分が嫌で、ついつい酒が進んでしまう。後先考えないまま酒を呑むうちに、ふと酔いにかまけた熱いため息が出た。
「…もう酔いましたか」
「うん、…かな」
 胸のうちをごまかすようにスマイルは笑う。
「ピッチはえぇんだよ。もっとゆっくり飲めよ、ビールじゃねえんだし」
「うん…」
 そういうことは先に言ってくれ、とは今更の話だ。けだるい気分に包まれたスマイルは、ペコの隣へと移動してベッドに背を持たれかけた。
「あー、…すぐに寝そう」
「俺一人で飲むの寂しいからよ、もうちょっと頑張ってくれろ」
「うん…」
 うなずきながらスマイルは視線を床に落とす。ペコが床についている手が見える。ふと以前のように指を伸ばして、つついてつかんで持ち上げる。
「…スマイルって、酔っ払うとお触り魔に変身するよな」
「そお?」
「お前、女と飲む時は気を付けろよ」
「うん…」
 言いながらも、多分しないだろうとスマイルは考えた。当たり前のように誰にでも触りたくなるわけじゃない。相手がペコだからだ。
 ――バカだなぁ。
 寂しいだけなのかも知れない。手の届かない人に追いつこうとして、結局追いつけないまま終わろうとしている自分を、誰かに憐れんで欲しいだけだ。お前は良くやったよとほめてもらいたいだけだ。
 ――ああ、バカらしい。
 そう思いながらも、スマイルの手はずっとペコの指をもてあそんでいる。
「…なんか、あった?」
 不意にペコが聞く。え? と酔っ払った声で聞き返しながらスマイルはふと顔を上げた。
「ないよ、別に」
 そう言って微笑んだが、ペコの懐疑の視線は消えなかった。
「お前って、ホント変わんねぇな」
「なにが」
「ガキの頃からさ。平気そうなツラしてっけど、なんかずっと我慢してる感じでさ。時々なんかすっげー嫌そうな顔する癖に『なんでもない』とか言ってさぁ」
「…そうだっけ」
「そうだよ」
 自覚はなかったけれど、ペコが言うならそうなのかも知れない。
「俺言っただろ、頭きたら怒りゃいいし、おかしきゃ笑えって。なんでいっつもそうやってハナっからあきらめたみたいな顔してるわけ? 自分はなにも手に入れられないって思ってねえか?」
 ――そうかも知れない。
 確かにいつもなにかを我慢していた。なにかをあきらめていた。世界は遠くて、自分には手の届かない場所にある、――そうかも知れない。
 けれど、一番欲しいものは、やっぱりいつだって遠い。そばに居ても、ペコは遠い。
「なんか言いたいことあるならはっきり言えよ。ガツーンとさ」
「ガツーンと」
「そ、男らしく」
「好きだよペコ」
 ペコの指をもてあそびながらスマイルは呟いた。酔っ払った口調で、それでもはっきりと。
 ――あーあ、言っちゃった。
 まるで他人事のように思いながらスマイルはもう片方の手でメガネをはずし、眠い目をこする。これでペコも失うのかなと思うと少し寂しいが、もともと失っていたものだ、あきらめるのは、それこそ簡単だ。
 どうせ失うならとスマイルはペコの指をぎゅうと握り、放す。そうしてまた握る。自分のものにはならなくても、やっぱりペコの体は気持ちいい。


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