耳元で突然ものすごい轟音がして、同時に髪の毛をなにかに引っぱられる感覚に、スマイルは目を醒ました。あわてて飛び起きると、掃除機を抱えて仁王立ちする母親の姿があった。
「邪魔」
そう一言呟くと、ぐいと掃除機の吸い込み口を顔に寄せてくる。
「いつまでも寝てると、生ゴミと一緒に捨てちゃうからね」
「なんだよ、たった一人きりのかわいい息子なんだから、もっと大事に扱ってよ」
「なにが『かわいい』よ、よく言うわ。酔っ払って昼過ぎまでぐーすか寝こけてた癖に」
「もうそんな時間?」
手探りでメガネをみつけ、かけながらテレビの上の置時計を見る。もう三時だ。しまった練習、と思ったが、中間テストが近い為に昨日で平日以外の練習が休みになったことを思い出す。だからペコも安心して酒を持ってきたのだろう。
そういえば、ペコの姿がない。
「ペコは?」
自分の部屋に退散しつつ、それでもふすまを開けて戸口に座り込みながらスマイルは聞いた。二人が暮らす家は平屋の借家で、各人の個室に居間と台所という造りだ。母親は居間に掃除機をかけながら「帰ったわよ」と無造作に呟いた。
「何時ぐらい?」
「あたしが帰ってきてすぐだから、朝の六時ぐらいかしらね。まだ寝てなさいよって言ったんだけど、起きたついでだから帰るって言って、帰っちゃった」
「ふうん」
「『いつ結婚してくれるのよ』って言ったら、あわててたわ」
そう言って母親はおかしそうにからからと笑う。
「母さん、あんまりペコいじめるなよ」
「いじめてないわよ、失礼ね。あたしは素直な気持ちでプロポーズ待ってるだけよ? まあもし本当に結婚するとしても、とりあえずあの髪型は変えるけどね」
小さい頃からペコが遊びに来るたびに、なんであの子はあんなおかしな頭してるのかしらねと、怪訝そうに言うのだった。人間性は嫌いではないようだが、あのおかっぱだけは許せないらしい。
「僕もう今更、弟も妹も欲しくないし…まあ再婚するのは母さんの勝手だけどさ」
「あらあら、冷たい息子ね。――ほら、ついでにかけてあげるから、粗大ゴミにして出されたくなかったらベッドにでも上がってなさい」
「はいはい」
生ゴミの次は粗大ゴミか、と思わずスマイルは苦笑する。それでも素直に言われるままスマイルはベッドに上がって、母親が掃除機を動かす姿をぼんやりとみつめた。
「――なんで別れたの」
不意に言葉が口をついて出た。よく聞き取れなかったらしく、母親はふと手を止めて「え?」と聞き返してきた。
「いや…なんで別れたのかなと思ってさ」
「――あんたそれ、しらふで聞くことじゃないわよ」
「そお?」
そんなことを言われても、こちらは一応未成年だし、自分は実の息子だ。わざわざ酔わなければならない法もない気がするのだが。
母親は一瞬だけ考え込むような顔をして、不意に掃除機のスイッチを入れた。
「なんでかしらね」
まるで他人事のように呟く。
「これといって、特に理由もない気がするわ。まあ女癖が悪いのは我慢出来なかったけど」
「それだけ?」
「それだけってあんた、それでも立派な理由じゃない」
いささか呆れたように、再び手を止めて母親はスマイルをみつめる。
「自分の身になって考えてみなさいよ。自分の彼女が自分以外の男と次々浮気してるの見て、あんた許せる? 目の前でほかの男といちゃいちゃしてるの見て、笑ってられるの?」
「それは…」
「あたしだったら絶対に嫌よ。そんな軽薄な男、こっちから御免だわ」
そうなのかも知れない、とスマイルは考える。いや、多分そうなのだろう。ただ、そこまで独占したいと思う相手には、これまで出会ったことがない。そもそもそこまで誰かと深く付き合ったことなどないし、今いいなと思う人には、既に付き合っている相手が居る。
卓球という、自分にとっても友人であるその相手と。
――そういう場合はどうしたらいいんだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、突然おかしそうに母親が笑った。
「なんだよ」
「あんたもそんなこと聞いてくるようになったのね。まったく、母さんは幸せだわ」
母親はわざとらしく泣き真似をしてみせる。
「…いやぁな感じ」
そう呟くと、ふてくされたようにスマイルはベッドに横になった。
「そういえばあんた、三者面談があるとか言ってなかったっけ」
部屋を出ていきしな、母親が足を止めて振り返った。
「そうだ、忘れてた」
スマイルはかばんを探ってプリントを取り出した。
「いつ?」
「十月の最後の週だね。木曜日の三時。大丈夫?」
「三時かぁ…もう一時間遅いと、そのまま店行けるんだけどなぁ」
「交渉してみようか。まだ決定の組み合わせじゃないって言ってたし」
「あんた、どうするのよ」
納戸に掃除機を押し込みながら母親が言う。
「どうって?」
「卒業後の予定。なんか希望はあるの?」
「希望って言われても…」
正直、特にこれというものはなかった。ぼんやりとどこかの会社に勤めるのだろうとは思うが、具体的にはなにもない。卒業自体まだ一年以上も先の話だし、昔からなりたい職業があったわけでもない。
「大学、行く?」
入口の柱に寄りかかるようにして母親は息子の姿を見下ろす。
「……」
返事に困ってスマイルは手元に視線を落とした。
「だって、お金ないだろ」
「バカね、あんたがそんなこと心配しなくてもいいわよ」
それでもスマイルの言葉に嬉しそうに母親は笑い返した。
「それぐらいなんとかなるわよ。あんた成績悪くないんだから奨学金だってもらえるだろうし。行きたいんだったら行きなさいよ」
「うん…」
「あんたの人生でしょ。好きにしなさいよ。それに、あとでたっぷり恩返ししてもらうつもりで今頑張ってるんだから、売れる恩があるなら売らなきゃね」
「……」
さっきとはまた別の意味で言葉を失って、スマイルは母親をみつめた。母親は意地悪そうに笑って姿を消した。
言葉は悪くとも、それでもそれなりに応援してくれているのだ。一応は感謝するべきなのだろう。
スマイルは短いため息を吐き出してプリントを放り出す。そうしてまたベッドに横になって天井を見上げた。
――大学か。
勉強自体は嫌いではない。ペコと知り合う前は暇つぶしにずっと勉強をしていたような状態だったし、実際成績はいい方だと思う。ただ、これ以上暇つぶしの為に金を払ってまで勉強を続けるのは、いかにもバカらしい。
――暇つぶし。
結局、なにも変わっていないのかも知れない。考えるのはどうしたら迷わずに生きていけるのか、それだけだ。卓球を知ってなにか道をみつけたような気になっていたけれど、それもやっぱり暇つぶしに過ぎなかった。所詮人生は始めから終わりまで暇つぶしに過ぎないとしても、せめて楽しんでやれることをみつけたかった。
――でも、それは、なんなんだろう。
わからない。
生まれてまだ十七年の子供に、そんな難しいことを押し付けるなと、投げ遣りのように思ってスマイルは目を閉じた。