土曜日、四時に一旦部活を済ませてから二人はそれぞれの自宅に戻った。七時にスマイルの家にペコが来ることになっている。簡単に家のなかを片付けて、スマイルはペコを待った。母親が出勤前にカレーを作っておいてくれたので夕飯はそれで済む。ぼんやりと自分の部屋でラジオを聴いているうちに、やがてペコがやって来た。
「ほい、誕生日祝い」
玄関を開けると、そう言ってペコは紙袋に包まったものを差し出した。受け取ると、ずっしりと重い。しかも硬い。
「…なに?」
「開けてのお楽しみぃ」
紙袋を探ると、出てきたのはウィスキーの瓶だった。思わず呆気に取られた。
――そんなことじゃないかとは思ってたけど。
要するに、いい口実に使われただけの話なのだ。
「あによ、気に入らない? ビールが良けりゃ今から買ってくるで」
「いいよ、別に。――ありがとう」
ペコの姿を見下ろして、スマイルは苦笑する。
「土産もあるでよ。ほれ、ケンタッキー。あとおつまみもろもろ」
そう言ってペコはもう片一方の手に持った袋をかかげてみせる。
「とりあえず食おうぜ。腹減った」
「母さんがカレー作ってくれたけど、食べる?」
「食う!」
喜び勇んでペコは靴を脱ぎ、勝手知りたる他人の家、とばかりに居間に足を踏み入れた。
スマイルがカレーを温めているあいだにペコは着々と飲み会の準備を進める。カレーを皿に盛り、テーブルに置く頃には、全ての準備が完了していた。座布団に腰をおろすと、「ほい」とペコがウィスキーの入ったグラスを手渡してくれる。
「カレーには、あわないよね」
「まあな。ま、文句言うな。酒は酒だ。――ほい、乾杯」
そう言ってペコがグラスをあわせてきた。スマイルはまた苦笑して、それに応える。
「おばさんのカレーって、なんか独特の味するよな」
待ちかねたようにスプーンを動かしながらペコが言う。
「そう?」
「うん。なんかうちのカレーと違う。こう、コクがあるっつうか、まろやかっつうか」
「そうなんだ」
よその家であまり食事をしたことがないので、スマイルにはいまいちわからない。少なくとも学食のカレーよりは美味いと思うぐらいだ。
「おばさん、今日も仕事?」
「仕事」
「なんかプレゼントもらった?」
「もらわない。――あ、でも店の割引券くれた」
スマイルの母親は昔からスナックでホステスをしている。店は何度か変わりながらも、とりあえず息子が独立するまではと頑張っているようだ。そもそもスマイルを生んだのは十七の時で、まだ三十代前半の、女ざかりの元気な母親なのである。
「おばさんも相変わらずだなぁ」
スマイルの言葉に、ペコは大口を開けて笑う。
「でもそんなのもらったってしょうがないよ。ペコにあげようか」
「いらねえよ。なんでわざわざ金払っておばさんと飲まなきゃいけないわけ?」
「僕だっていらないよ」
でもそういうのもおもしれぇかもなぁと、ペコは一人でごちている。そんな姿にスマイルは小さく笑ってグラスを口に運ぶ。たまに母親の晩酌につき合わされるので酒はそれなりに呑み慣れていたが、ウィスキーを飲むのは初めてだった。加減がわからず、いささか酔いが回るのが早い。
とりあえずカレーを片付けてペコが持ってきたつまみに手を伸ばしていると、不意に呟く声が聞こえた。
「俺、こないださぁ」
テーブルに片手で頬杖をつきながらスマイルは振り返る。
「よそのクラスの女に聞かれたんだけどさぁ」
「なにを?」
聞き返すスマイルの目は、酔いの為か少しとろんとしている。
「『月本くんて、彼女居るの?』だってさ」
「ふうん」
つまらなさそうに呟いてスマイルはまたウィスキーを飲む。しばらく経ってから振り返り、
「僕のことか」
「そうだよ」
苦笑してペコはグラスに酒を注ぐ。
「一応居ないって答えといたけどさ」
「今度から居るって言っておいてよ」
「え、マジ!? 居るの!?」
「居ない」
首を振りながらスマイルはメガネをはずし、眠そうに目を何度かこすった。
「居ないけど、居るって言っておいて。面倒だから」
「んだよ、ぜいたくもんめ」
「だってさ」
メガネをはずしたまま、ぼやける視界にスマイルは視線をさまよわせる。
「そりゃ気持ちは有り難いけど、別になんとも思ってない子から気持ちを押し付けられるのって、なんか嫌なんだ。なにもしてあげられないし、下手に期待されるのも嫌だし、恨まれるのも嫌だし」
「へええぇ」
もてる男も辛いのねぇ、と呟いてペコはグラスに口をつけた。
「そういやぁお前がそういう話するのって、聞いたことねぇな」
そうだっけ、と呟きながらスマイルはテーブルにうつ伏せる。顔だけ上げてテーブルの上に乗るものを見ながら、ふとペコの指に目を止めた。健康そうなピンク色の爪に惹かれて、グラスをつかんでいた手を離し、不意にその指を握った。
「あに」
「ん…別に」
そうして、力の抜けたペコの左手の薬指を、もてあそぶように指一本で押し上げては軽く握る。
「お触り魔」
「うん…」
きれいな爪だな、とスマイルはぼんやり思った。わずかに指先に感じるペコの体温が、信じられないほど心地良い。
「居ねぇのかよ、誰か」
「――なにが?」
スマイルはふと手を止めてペコの顔を見上げた。静かに酔っ払ったスマイルに苦笑するペコも、やっぱり同じように酔った目でぼんやりと自分の指先をみつめている。
「こう…いいなぁって思う奴さ」
「…居るよ」
「へええぇ、どんな人っすか」
返事をせがむように、今度は反対にペコが指をつついてきた。
「やっぱあれっすか、スマイルさんの好みはおとなしめの人ですか、それともかわいい系の人っすか」
「なんだよ、それ」
笑ってスマイルは指を離し、グラスに口をつけた。
「…なんて言うんだろうね、子供みたいな人だよ」
「…スマイルって、ロリコン?」
「違うよ、バカ」
空になったグラスにペコが酒を注いでくれるのを見ながら、スマイルは小さく笑う。
「自分のことに夢中でさ、僕のことなんか全然眼中にないんだよ」
「へえ」
「絶対にこっち向いてくれないんだろうな…」
言ったとたんに、少し悲しくなって、スマイルは口をつぐんだ。そうしながら、こんなに近くに居るのにな、と思う。
いつだって、ペコはそばに居ながら遠い人だった。自分には絶対に追いつけないほど高い一点だけをみつめて、そこへたどり着こうとがむしゃらになっている。そんなペコを素直に応援してやりたいと思うし、実際それがスマイルの喜びだ。だから、最初から振られているのだ。
――バカバカしいな。
確かにバカバカしい。そしてなにより、それでもなおペコから離れられない自分が、一番バカバカしかった。つい自嘲気味の笑みがスマイルの口から洩れた。
「あんだよ」
スマイルの苦笑に気付いてペコが問う。
「別に」
ごまかすようにスマイルは小さく首を振った。
「ペコは?」
「あん?」
「居ないの? そういう人」
「おっ、俺は――」
突然話を振られて困ったようにペコは眉根を寄せた。
「そりゃ、彼女欲しいなぁとか思う時もあっけどさ、だけど…」
「だけど?」
「…なんか、よくわかんねぇなぁ」
そう言ってテレをごまかす為か、ぐいとウィスキーのグラスをあおった。
「とりあえず卓球でてっぺん取りてぇしな。そんだけだ。早く高校ハネってヨーロッパ行きてえよ」
「――ほらね」
「あに?」
テーブルに横顔をついてペコの姿を見上げながら、こんなふうに見下ろされるのは初めてだな、と酔いの回った頭でスマイルは考える。手と足の指先がじんじんしびれていて、飲みすぎだ、と意識の底で思った。
「自分のことしか頭にないだろ…」
そう言って微笑んで、そのまま目を閉じた。
「…スマイル?」
ペコの呟きも、もう聞こえていない。スマイルは引きずられるかのように一気に眠りに落ちていた。だからそのあと、いつペコが帰ったのかわからなかった。そしてその時黙って一人で酒を飲みながら、ペコが自分の寝顔にしばらくみとれていたことも、スマイルは勿論知らない。