神社のお社の前の石段に腰をおろしてスマイルは空を見上げている。
「終わっちまったなぁ」
ペコがぽつりとそう呟くのに小さくうなずき返して、ふとその横顔をみつめた。石段の下に見える景色に目を向けて、ペコはなんだか寂しそうだ。暑い夏の名残りは太陽に焼かれた敷石にしかもう残っていない。ペコの痩せた肩に目を落として、スマイルはそうだね、と今更のように呟いた。
「ま、また来年もあるしな」
口のなかに飴玉を放り込むとペコは大きく伸びをして、ついでにあくびをする。眠そうに首を回すと、不意にスマイルの腕に背中を預けて、石段の上で器用にも横になった。
「重いんだけど」
「気のせいだ」
けけっと笑ってペコは目を閉じる。
日陰に避難した二人に向かって、さわやかな風が吹きつけた。風に前髪を揺らされながらスマイルはじっとペコの重みを感じている。繰り返す鼓動が自分のものなのかペコのものなのか、スマイルにはわからない。
誰かが、こんなふうに気安く自分の体に触れることは滅多にない。周りには冷たい人間だと思われているらしく、話しかけてくる人間すら滅多になかった。そんななかでペコだけが特別だった。誰にも遠慮はしないし、だから当然スマイルにも遠慮はしない。人を枕代わりにしておいて平然としている。
その気安さが、スマイルはうらやましい。
じっとしていると、体が触れている部分がじんわりと温かくなる。さほど暑苦しいと感じないでいられるのは涼しくなった気候のせいだ。やはり夏は終わってしまった。少し寂しく思いながら、人の体って気持ちいいなとスマイルは考える。
当然のようにそこにある、自分以外の存在。ふと触りたいという欲求を覚えて、スマイルはあわてた。
最近、ペコと一緒に居ると、どうしてもそういうことを考えてしまう。この手に触れて、その温もりを感じて、本当に目の前に居るのだということを確認したかった。こんなふうに枕代わりにされて、口では文句を言いながらも、心の底ではもっと触れて欲しいと思っている。
いつかまた居なくなる。それが半ば事実としてあらためて認識された時から、その想いは強くなった。
「調子はどう?」
言葉をかけると、ペコは目を開けてスマイルの顔を見上げた。
「あにが」
「足。まだ痛む?」
「…ちょっとだけな」
言われて初めて、自分が足を悪くしていることに気付いたふうに、ペコはそっと手を伸ばして右膝をさすった。
「まあでもだいぶ良くなった。ホントは早く道場行って打ちまくりてぇけど、オババがうるせえしな」
「無理しない方がいいよ」
「わあってるって」
スマイルの言葉を、わずらわしそうに手を振って止めてしまうと、ペコはそのまま目を閉じた。やっとのんびり昼寝が出来らぁと呟いて、楽しそうに一人で笑っている。
六月に行われたインハイ予選で、ペコは海王学園の風間竜一を押さえて優勝した。のみならず八月のインハイ本戦でも日本一となり、とうとう日本国内での「てっぺん」に立ち上がったのだ。その代償が、右膝の故障だった。
予選と本戦とのあいだにいくらかインターバルを置いたとはいえ、負担をかけていることに代わりはない。たとえただ歩くだけでも膝には悪い。当たり前のように誰にでもある器官なのに、ほんのちょっとのことで簡単に駄目になってしまう。歩くことが駄目になる、走ることが駄目になる、でもペコにとってはそれだけじゃない。
卓球が、出来なくなる。
幸い故障の程度はそれほど大きなものではなかったが、本戦終了直後、医者から一ヶ月の療養を言い渡されてしまった。またあの走り込みするようじゃねえかとぶつぶつペコは文句を言ったが、この一ヶ月を我慢しなかったせいで一生をフイにすることの愚かさはわかっているようだ。仕方なく医者の言いつけを守っておとなしくしている。
そうして夏休みが終わり、気が抜けたように二学期が始まって、久し振りに二人は顔をあわせていた。
インハイの予選が終わってしまうと、それだけでスマイルは早々気が抜けていた。あとに続く本戦はおまけのようなものだった。などと言うと、本戦に出られなかったほかの選手たちには申し訳ないとは思うけど、事実だ。
卓球は、やっぱり暇つぶしだった。
石にかじりついてでも続けたいと思うほどのものではない。それがわかった。でもそれはイコール嫌いだということではなく、かといってただの趣味というのとも違う。ただ純粋に、卓球が楽しい。そう思えるようになったのだ。
本戦でスマイルはベストエイトまで残った。残念ながらそこで風間とぶつかってしまい、あえなく散った。恐らくそれまでだったら風間のような選手にはもっと呆気なく負けてしまっただろう。けれどスマイルはぎりぎりまで粘り、一ゲームだけ奪うことが出来た。台の向かいで球を打ち返す風間も、実に楽しそうだった。あんな風間の顔は初めて見た。みんなペコに変えられたのだ。
なのにその張本人は、スマイルの腕に寄りかかって気持ち良さそうに目を閉じてしまっている。今思い返すと、あれは夢だったんじゃないのかと勘違いしてしまいそうだ。
でも夢じゃなかった。ペコの部屋には、優勝記念のメダルとトロフィーが飾られている。きっと来年も手に入れるだろう。
――やっぱり手が届かないんだな。
ペコを見てふとそう思う。
こんなにそばに居るのに、ペコは遠い。いつだってどうしたって追いつけないほど遠くからこちらを見て、早く来いよと笑っている。追いつこうと頑張った頃もあった。追いついて、同じ場所から同じ風景を見てみたい、そう思った。
でも結局追いつけなくて寂しくて、けれど、追いつけないことがわかって嬉しくもある。いつだって先に立ってその景色のそのまた先を指し示して、早く来いよともどかしげに笑う、そんなペコが好きだった。だから遠くていい、とスマイルは思う。いつも遠くに居て欲しい、どこまでも遠くを見て、迷いもなく進んで欲しい。
そう思うのに、それでもやっぱりスマイルは寂しくなる。だから触れたくなる。遠くても、今だけはそばに居る。それを確かめる為に触れたいと感じる。
いつか、きっと、居なくなる。
スマイルはふと悲しくなって、想いを飲み込むように、そっと手を握りしめた。
「お前、今月誕生日じゃなかったっけ」
不意にペコが目を開けてスマイルを見上げた。
「そうだよ」
「なんにち?」
「二十五日」
「二十五…火曜? あれ、水曜?」
「水曜日…だね。それがなに?」
そう聞くと、ペコはにっかりと笑って、
「お祝いしてやろっかぁ」
――なにか企んでるな。
そう思いながらも、それでも祝ってくれると言うのなら、否む術はない。お好きにどうぞ、といったふうにスマイルはうなずいた。
「じゃあその週の土曜日にお祝いしてやるよ。プレゼント持って、お前ん家行くわ」
「わかった」
プレゼント?
そんな殊勝なことを言うペコは初めてだ。一体どんな物を手渡されるのかは疑問だったが、それは当日までのお楽しみにとっておくことにした。あんまり期待しない方が良さそうだな、と思いながら、スマイルはまた空に視線を投げる。
夏の名残りの生暖かい風に吹かれているうちに、いつしかペコの寝息が聞こえてきた。ふとペコの寝顔を見下ろして、そうするうちに、また空に視線を戻す。
ともかく、夏は終わったのだ。