タクシーは五階建ての瀟洒なアパートの前に止まった。部屋は二階だった。
「上行けば見晴らしはいいけど、下の住人に気ぃ遣うんすよ。夜の十時以降はトイレの水流せないとか、ほかにもいろいろ。ここは下が店だからまだいいんですけどね」
暖房のスイッチを入れて風間を居間のソファーに座らせると、ペコは奥の部屋へと消えた。上着を脱いで風間はふと天井を見上げる。特にこれといった飾りっ気のないシンプルな内装だったが、そこがまた彼らしいとふと笑みが洩れた。
「あ、つまみがあんまりねぇや」
上下スウェットに着替えて現われたペコは、いささか眠そうにあくびをしながら冷蔵庫をのぞく。
「構わんよ。どうせたいして入らないしな」
なんやかんやいいながら、レストランで結構食べた。味がわからなくても詰め込む癖はついている。考えてみると、非常にもったいない食生活ではある。
ペコが台所で用意をしているあいだに、風間はセーターを脱いだ。外を出歩くようにかなり着込んでいるので、屋内だと暑くてたまらない。
「ドイツは寒いっしょ」
風間の重装備振りを見てペコが笑う。
「乾燥がすごいからちょっと気ぃ抜くとすぐカゼひきますしね。その分夏は過ごしやすくてサイコーっすよ」
「日本の夏は蒸し風呂だからな」
ペコからグラスを受け取ってワインを注いでもらい、口へと運ぶ。まだまだ飲めると思っていたが、アルコールの香りをかいだとたんに、喉の奥に唾が込み上げてきた。自覚している以上に酔っ払っているらしい。
結局二人とも、なめるようにしてちびちびとグラスを空けてゆく。やわらかなソファーに沈み込んで暖かい空気に包まれていると、ようやく頭の奥の意識が溶けていくような感じを覚えた。
「日本の大会には出ないのか?」
ふと顔を上げて聞くと、ペコは小さく首をかしげてみせた。
「まだ今は…俺が出るとしたら、なんですかね」
「全日本だろうな。今月の頭に、今年度の後期の大会が終わったところだ」
「来年度は?」
「五月か六月頃だろう」
「風間さん、出るんすか」
「――出られるといいな」
そう言って風間は小さく笑った。
「なんか、弱気っすね。どうしたんすか」
「うん…」
失恋で弱っているなどと話したら、きっと笑われるに違いない。ごまかすように風間はグラスを口へと運んだ。
「まあ、そうだな。昔と違って、純粋に試合を楽しめるようにはなった」
共に戦ったインターハイの予選の時を思い出しながら風間は言った。
「あの頃に比べればずいぶん気は楽だ。だがその分、なにか…手放してはいけないものまで、知らずのうちになくしてしまったような気もしてな…」
どちらが良かったのだろう? 負けることを恐れ、勝利を得ることが唯一自分の存在価値だと思い込んでいたあの頃と、負けを受け入れながらも一つ一つじっくりと階段を昇ることを楽しんでいる今の状況と、どちらが。
昔は苦しくはあったがなにも悩む必要はなかった。ただ恐怖とだけ戦っていれば全てが済んだ。
今の自分を、あの頃の自分は情けないと言うだろうか。それともこうなることをどこかで望んでいたのか――。
「人生は選択の連続だ」
ペコの言葉に、風間はふと顔を上げた。
「…前、友達に言われたんすよ。いつでも覚悟しておけ、って」
「覚悟?」
ペコは小さくうなずいて、
「いつでも選択することを迫られている、全てを失うのはほんの一瞬で済む。後悔しないように、きちんと全部を見て、それで選べ、って…」
「――確かにな」
風間は微笑み返す。それはどこか自嘲気味の笑いでもあった。
「一瞬で、済んでしまった」
『わかったよ』
あの日の朝、自分は言ったのだ。なにも聞かず、なにも納得しないまま、ただ相手の言うとおりに従った。
『君がそう言うのなら、そうしよう』
孔はなにも言わなかった。感情を殺して、じっと押し黙ったまま、ただ自分をみつめていた。無理にでも聞き出そうとすれば、嫌だと意地を張れば、なにかが違ったのかも知れない。でもそうしなかった。そうしないことを自分は選んだのだ。
『そんなもんはただの甘ったれだ』
――さすがですよ、監督。
グラスをテーブルに戻し、ソファーに深く体を沈ませながら、風間は深いため息をついた。ペコはなにも言わないまま、そんな風間をみつめている。部屋はふと沈黙に包まれ、スチームが暖かな空気を吐き出す時のコウコウという小さな音だけが静かに響いていた。
ふと気を抜いた瞬間、風間は深い眠りに引きずり込まれた。時間にすれば一分にも満たないあいだだったろう。だがその短い眠りの合い間に、風間は夢を見た。過去へと戻る夢だった。
そこには孔が居て、孔の部屋で向かい合って座りながら、ただ笑っていた。いつその顔を見たのか覚えていない。なにを話しているのかもわからない。それでもそこには当然のように孔が居て、居なくなることなど微塵も疑っていない自分が居た。
こんなに苦しい思いをする未来の自分の存在など、かけらも想像していなかった。
不意に孔が立ち上がってこちらに近付いてきた。そうして風間の腕を取って立たせようとする。意地悪をするようにそれにあらがうと、孔は苦笑して肩に風間の腕を回し、背中に両手を入れた。風間は笑ってそのまま反対に孔の体を抱き寄せて、
「ん…っ」
深く唇を重ねた。くすくすと笑い、意地を張って噛みしめる唇のあいだを割り、風間は舌を差し込んだ。そうして奥に隠れる孔の舌を探っては絡み合わせる。ぎゅうと痛いほどに孔の体を抱きしめ、その痩せた肩をいとおしく思い、互いに息が乱れるほどに深く深く口付けを交わした。
いつの間にか孔の腕は風間の背中にしがみついており、そのまま床へと押し倒して更に息を交わす。風間は孔の着ている服をたくしあげて、なめらかな肌に手を触れる。びくりと体が揺れ、わずかに抵抗するように胸を押されたが、背中をさすり、その肩を握り、そうして胸の小さな突起に指を触れると、
「は…ぁっ」
かすかな悲鳴が口から洩れた。風間は指先で突起をつまみ、そっとこすりあげてみせる。そのたびに孔の体は震え、抵抗していた手がかすかにすがるように風間にしがみつく。
重ねていた唇を離し、のけぞらせた孔の首筋に押し当てる。そうして軽く吸い上げ、舌先でくすぐり、
「や…っ、…ん、」
胸元をまさぐりながら肩口を強く吸い上げた。
孔は風間の肩に手をかけて、抵抗するようでもあり、誘いをかけるようでもあり、震える指でしがみつき、じっと息を殺している。胸元まで服をたくしあげて舌先で突起を舐めると、
「あ…!」
身をすくませた。わずかに硬くなった突起を口に含み、もう片方を指でもてあそぶと、
「やっ…、っあ、あ…!」
嫌々をするかのように首を振り、そうしながらも熱くなり始めた手で風間の髪をつかみ、ぎゅうと胸に押し付けてみせる。