花屋の店先で十分ほど悩んだ。
 今更花など持っていっても邪魔になるだけだろうかと思い、それでもなにもないのは手持ち無沙汰だしとも考え、そもそも帰国がいつなのかを聞くのを忘れたなと思い出し、だいたい男に花をもらって孔は嬉しいのだろうか? との疑問に思い至る。
 ただ、いつも孔のアパートへ行く時はなにかしらの花を買って持っていっていた。窓際に置いていたミリオンバンブーが直射日光を嫌うので台所へ退散してしまい、代わりに置く花を、なんとなく選んで持っていった。いつも嬉しそうに受け取ってグラスに挿して置いてくれていた。
 ――まあいい。
 結局風間はガーベラを色違いで三本ほど買った。なんとなくあの無造作なところが孔らしいと思った。そうして片手にはいつものようにビールの缶を抱えて、ぶらぶらと、懐かしい道をゆく。
 街は夕闇に包まれつつあった。生ぬるい空気が不思議と心地良い。
 アパートのドアを叩くと、しばらくの間ののちに開けられた。孔の、変わらない笑顔が少し照れたように出迎えてくれる。
「やあ」
「こんばんは」
 ドアを閉めてなかに入り込みながら風間は「土産だ」とビールを差し出した。
「ありがとう」
「あと、これを。邪魔になったら申し訳ないが」
 そう言って風間はガーベラを差し出した。孔は驚いたように目を見張り、それでも、また「ありがとう」と呟きながら受け取った。ふと鼻を寄せて匂いをかぎ、そうしながら顔を上げて風間を見た。
「良かったら窓際にでも置いてやってくれ」
「ああ…」
 どちらが先に手を伸ばしたのかはわからない。気が付くと二人は玄関先で互いの体を痛いほどに抱きしめていた。懐かしい痩せた肩を抱き、孔の甘い香りに包まれながら、風間は嬉しさのあまり泣きそうになっていた。
「…痩せたな」
 戸惑ったように孔が言った。
「誰かさんのことが心配で、飯が喉を通らなくてな」
 そう言って風間はくすりと笑い、
「そういう君は、煙草の匂いがするな」
 頭を撫でながらふと顔を上げた。孔は照れたようにうつむきながら、
「…口をふさいでくれる人が居なくなった。寂しかった」
「――私もだ」
 そう言って風間はそっと唇を重ねた。孔は戸惑ったようにすぐに唇を離してしまったが、探るように真っ黒な瞳をのぞきこむと、長いまつ毛をわずかに震わせて、再び唇を寄せてきた。
 そうして抱き合いながら、長い口付けを交わす。気が付くと孔は泣いていた。涙の跡に唇を動かしながら、風間はふと欲情しそうになってしまい、
 ――男ってのは、どうしようもない生き物だな。
 思わず内心で苦笑していた。
 慰めるように頭を撫でて孔の涙がおさまるのを待った。潤んだ瞳でみつめられて、また唇を重ね、風間はそっと微笑んだ。
「久し振りだな」
「ああ」
「電話をありがとう。君にかけてもらわなかったら、一生腐っていたところだったよ」
「…まさか、風間がかけてくれていたとは思わなかった。あんな…ひどいことを言ったのに」
「自分でもビックリするぐらい執念深い男だということを嫌というほど思い知らされた」
 そう言って風間は小さく笑った。
「ともかく、なかへ上げてくれないか。さっきから腹の虫がやかましくてな」
 孔は笑ってうなずき、体を引いた。風間は部屋に入り込んで上着を脱ぐと、指定席だった壁際に腰をおろした。
 部屋のなかを見回しながら、幾分か荷物が片付いていることに気が付いた。
「上海へはいつ戻るんだ?」
 食事の用意をする孔に聞くと、
「六月五日だ。夕方の飛行機に乗る」
「本当か? 全日本の初日だな」
「試合が見られないな」
「見送りに行けん」
 そう言うと、孔は困ったように笑った。
「来るな。別れが辛い」
「…人前で抱き合うわけにもいかんしな」
 ビールの缶を受け取りながら風間は苦笑した。
 孔がガーベラをグラスに挿してベッドの脇の棚に置いた。
「かわいい花だな」
「ガーベラと言うのだそうだ。なんとなく君っぽいと思って買った」
「そうか? …どこがだ?」
 孔は腕組みをしてじっと花をみつめた。同じように考え込んだのち、
「どことなく元気が良さそうなところかな」
「それが取り柄だ」
 そう言って孔は小さく笑った。
 互いにビールのふたを開けて缶をぶつけ合った。一口飲んで、風間はさっそく料理に手を伸ばす。
「ユースの方から連絡があったのはいつなんだ?」
「先月。コーチから手紙が来た。少し急な話だったが、辻堂も藤沢の店もいいと言ってくれた」
「…そうか、インハイの予選前か」
「ああ。藤沢の方はもう辞めた。辻堂は今月の最後まで行く」
「いろいろと大変そうだな」
「そうでもない」
 辞めるのは簡単だと言って孔は笑った。
「ただきちんと終わらせるのは難しい。辻堂で一人、いい選手が居る。残していくのも、残されるのも、お互い不安だ。だから無理にでも励ます。もともと力はある。自覚がないのがいけない」
「もったいない話だ」
「ああ。だけど去年全国へ行った。今年もきっと行く」
「いい結果が聞けるといいな」
「きっと大丈夫だ」
 それからふと思いついたように孔は手を打って、
「風間、迷惑でなかったらもらって欲しいものがある」
「なんだ」
 孔は立ち上がって台所へと消えた。そうしてミリオンバンブーの鉢を持って戻ってきた。
「こいつをもらってくれないか。上海へは持っていけない。どうしようか困っていた」
「ずいぶん大きくなったな」
 鉢を受け取って風間はしげしげと眺めた。茎も葉もだいぶ伸びていた。
「世話はどうすればいいんだ?」
「水をやるだけだ。あとは勝手に大きくなる」
「なるほど」
 笑って風間はうなずいた。
「君の代わりにかわいがらせてもらうとするか」
「ありがとう」
 鉢を取り返して、孔はガーベラの脇に並べた。
「…二年近く経つんだな。大きくなるわけだ」
 しなやかに伸びる葉を眺めて風間はぽつりと呟く。そうしてビールに手を伸ばした。
「風間」
 ふと孔の声に振り返ると、妙に真剣な顔をしてこちらをみつめていた。
「なんだ?」
「――ごめんなさい」
 そう言って不意に頭を下げた。
「なんだ突然、勘弁してくれ」


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