初心に帰るのは大事なことだなと今更のように思いながら、風間は部内での総当たり戦の順番を待っている。
最近はなにもかも悩むのが面倒で、いっそのことなにも考えないでいようと決めたら、とたんに楽になってしまった。こんなに簡単なことだったとは思いもよらず、いささか自分の不器用さに呆れ返ってもいる。
「なんだか最近、調子いいな。なにか吹っ切れたか」
仲村監督の言葉に風間は振り返り、
「おのれのバカさ加減を嫌というほど思い知らされました」
「それでそんなに浮かない顔してんのか? おかしな奴だな、調子いいんだか悪いんだかよくわからん」
「調子はいいです。ただ…」
「なんだ」
「『後悔先に立たず』という先人の偉大な言葉を、今、身にしみて味わっているところです」
風間の言葉に仲村は大笑いした。
「調子がいいならまぁ余計な口は出さないでおこう。全日本まであと十日だしな。とりあえず、このあと飯でも行こうや」
「ぜひ」
笑顔で去ってゆく仲村の後ろ姿を眺めながら、もう一つ身にしみる新しい言葉があったなと風間は思った。
『人生は選択の連続だ』
選ぶべき時に選ばなかった自分がただ悪い。それだけだ。そう思いながらも風間は、無意識のうちに大きなため息が洩れてしまうのを抑えられなかった。
結局、あのあとしばらくしてから電話をかけてみたのだ。だが孔は出なかった。何度かけてもずっと呼び出し音が鳴るばかりで、しまいには留守電につながってしまう。伝言を残したところでかけてくれるとも思えない。もしかしたら自分からだとわかって出ないのかとも思い、二度ほど公衆電話からもかけてみたのだが、結果は同じだった。
さすがに直接会いに行く勇気はなく、鬱々とするうちに、バカらしくなってしまった。どのみち言わなかった自分を恨むしかないのなら、それでいい。後悔は相変わらず続いていたが、ある部分吹っ切れたような感じはあった。
全日本のあとに実業団のリーグ戦もある。こんなことで――と言い切れないのが辛いのだが――人生を台無しにするのも、またバカらしい。
――二度と人を好きになどなるものか。
ただその想いだけを噛みしめる毎日だった。
練習を終わらせたあと、監督を中心に四人ほどで飯を食った。最近は食事をするのが苦痛ではなくなってきていた。減っていた体重も徐々に戻りつつある。
新宿から混み合った小田急線に乗り、寮までの道をとぼとぼと行く。このところ暑い日が続いており、夜の空気は生ぬるい。それでも寒いよりはマシだなと思いながら、風間は寮の自動ドアを抜けた。
自室に入り、荷物を床におろしてベッドに横になった。白く塗り込めた天井をぼんやりと見上げながら、全日本が終わったら一度真田に連絡を取ろうと考える。あの時の埋め合わせはまだ済ませていない。さすがに怒っているだろうかと考えた時、不意にバッグのなかで携帯が鳴った。のろのろと手を伸ばして携帯を取り出し、ベッドに横になったまま電話を受ける。
「もしもし」
『…風間か?』
探るような声が聞こえてきた。
「そうですが」
『…あの、』
――うそだろう?
思わず風間は身を起こした。まさか、こんな偶然があっていいものか――そう思いながらも、勢い込んで風間は聞いていた。
「孔か?」
『ああ…』
嬉しさと驚きのあまり、あんぐりと口を開けたまま、風間はしばらくのあいだ言葉を失っていた。ほぼ二年振りに聞く孔の声だった。
『今、大丈夫か』
「――ああ。その、」
『……?』
「久し振り、だな」
『ああ。…少し、話してもいいか?』
「勿論だ」
見えるわけもないのに何故か風間は乱れた服を直しながらベッドにあらためて腰をおろす。
『元気だったか?』
「まあ…そうだな。相変わらずというところだ。来月の全日本に出場が決まったよ」
『知っている。雑誌で読んだ。星野も出るそうだな』
「ああ。ドイツからわざわざ参戦するそうだ。君の方こそ、変わりはないか」
『……』
「孔?」
受話口の向こうで、小さく笑う声が聞こえた。
『その言葉を、久し振りに聞いた』
「…そんなにいつも言っていたかな」
『言っていた。いつも心配してくれた』
「心配するしか能がないからな」
そう言って風間は苦笑した。
『変わったことがある』
不意に孔の声が硬くなった。
「なんだ」
『辻堂と、藤沢の店を辞める』
「辞める? いつだ。何故?」
『上海に戻る』
「…そうか」
とうとう来るべき時が来てしまった。そう思って風間の心は重くなる。
『戻って、ユースに入る』
「入る…とは?」
『コーチから連絡があった。指導の人間が減った。私に、入らないかと』
「ユースで先生を?」
『ああ。選手としては終わったが、今度は選手を育てる。強い選手を育てて、日本を負かす』
「…負けないように、こちらも頑張らないとな」
そう言って風間は小さく笑った。
しばらく沈黙があった。「孔?」と声をかけると、ややためらうような口調で、孔が言った。
『風間、頼みがある』
「なんだ」
呟き返す風間の声はわずかにかすれている。緊張のせいで喉の渇きを覚えていた。
『一度でいい、…会ってくれないか』
風間は思わず目を閉じた。そうして小さくため息をついた。
『勝手を言っている、それはわかる。駄目なら駄目と言ってくれ。…会いたいんだ、一度でいい、会って謝りたいことがある』
「……」
『…駄目か?』
「なあ孔」
『なんだ』
恐れをなしたような孔の声が耳元で響いた。
「電話はどうしたんだ?」
『…電話? 携帯か?』
「ああ」
『五月に入って、捨てた』
「捨てた!? 何故?」
『いや、かかってくることがないし、かける相手も居ないし、留守電は聞けるから必要ないと思って……風間?』
聞いている最中から笑いが止まらなくなっていた。
「どうりで出ないと思ったよ」
『え?』
笑いをおさめると、風間はあらためて電話に向かった。
「なあ孔、今も君がそれを手元に持っていれば、同じことを私の方が言っていたよ」
『……』
「何度もかけたんだ。何度かけても出てくれないから、よっぽど嫌われたんだと思っていた」
そう言ってまた風間は小さく笑った。
「私の方こそ頼みたいぐらいだ。勿論だよ。…会いに行くよ」
『――ありがとう』
ほっと息をつくかすかな音が聞こえた。
「こちらからも、頼みごとをしても構わんか」
『なんだ』
「なんでもいいから飯を食わせてもらえないか? 寮の食事には飽き飽きしていてね」
『たいしたものは作れない。それでもいいか』
「勿論だ。明日の夜でいいかな」
『ああ。七時に私のアパートでどうだ』
「わかった」
嬉しくてたまらなかった。またこんなふうに約束出来る時が来るなど、思いもしなかった。やがて互いに「おやすみ」と呟いて電話を切り、大きく息を吐き出しながら風間はベッドに横になった。そうして白く塗り込めた天井を見上げて、
――見ろ、こうして天井はなにも変わりがない筈なのに、
気持ち一つでこんなにも世界は美しく見えるのか――。