「コーチ」
部活が終わったあと、部員に混じって後片付けをしていた時だった。孔は岡野に呼び止められて振り返った。
「なんだ」
「あの、今月いっぱいで辞めるって本当ですか?」
「本当だ」
うなずいておいて、孔は小柄な岡野の姿を見下ろした。
「ユースから連絡があった。私に指導をしないかとな」
「じゃあやっぱり上海に戻るんですね…」
「ああ。古巣に戻る、と藤田先生は言っていた」
そう言って、「古巣ってなんだ?」と冗談めかして岡野に聞いた。
「インハイの予選までは居てくれないんですか?」
岡野はひどく真剣な顔で孔をみつめている。その不安げな表情がたまらなくて、おもわず頭を撫でてしまった。
「私が居なくても岡野なら大丈夫。また予選を通る。全国へ行く」
「でも…」
「前も言った。その弱気がいけない。岡野は腕はいい。だけど攻める隙を見逃す。チャンスは一瞬だ。その一瞬を見逃していつまでも泣きたいか」
「――いいえ」
「なら、頑張れ。岡野なら大丈夫」
「はい…」
そう答えながらも岡野の不安そうな顔は変わらなかった。元気付けるようにバンと背中を叩き、孔はもう一度笑った。「僕やります」と孔の持つフェンスを奪って岡野は倉庫へと消えてゆく。その後ろ姿を見送って孔は体育館の隅に置いてある自分のバッグを探り、着替え始めた。
ユースに居た当時世話になったコーチから手紙が来た。珍しいなと思って読んでみると、なんとユースの指導員に空きが出来たから入らないかというのだ。あわてて電話をかけて確認を取ったら、在籍当時の成績を見込んで上部の方から言ってきたのだという。
『どうする?』
迷う必要はなかった。二つ返事で引き受けた。ただ今現在辻堂で指導している生徒たちが居る。ゴールデンウィークのあいだは短いが合宿もある。辻堂の方の都合も聞いてみなければわからない。
結局顧問の藤田と話し合い、五月いっぱいは残ることにしたのだ。藤沢の店にも同じように話をした。向こうも五月の下旬で辞める。話を聞いた夏は、
「送別会開こうぜ」
と、今から準備をしているようだった。
「まだ二週間以上も先の話だろうが」
「こういうのは早いうちにやっとかないとな。気が付いたらお前が居ないなんてことになったら意味ないだろ」
「ただ飲みたいだけの癖して…」
苦笑しながらも嬉しかった。長いあいだ勤めた店だ。それなりに愛着がある。
常連客の中野も「帰る前に一度店に来い」と言ってくれた。
「また日本来たくなるようによ、俺が極上の寿司食わせてやっから」
「ありがとう」
振り返ってみれば、自分はなんていい環境で毎日を過ごしていたのだろうと孔は思う。五年という長い歳月のあいだに、大勢の人たちと知り合って、そのなかで楽しくやってきた。辛いこともたくさんあったが、やっぱり残って良かったと今なら素直に思える。
『君が居る意味はある』
携帯は捨ててしまった。持っていたところでもう意味はない。もともとそれほど使う用事もなかったのだ。そんなふうにして部屋の一つ一つの荷物を片付けていくうちに、胸のなかにわだかまっていたものがすぅっと消えていくような、おかしな爽快感を覚えた。
大きな荷物はそのまま残していっていいと大家が言ってくれた。あとで処分するなりなんなりするそうだ。もともと身一つで上海からやってきたので、日本で揃えたものが殆どである。持ち帰るというのはどだい無理な話だ。素直に好意に従うことにした。
着々と帰国の日が近付きつつあった。それでも相変わらず昼過ぎまで藤沢の店で働き、夕方から辻堂で部員たちの指導をする。帰ることが決まっていても、毎日はそれほど変化もない。朝起きて顔を洗い、歯を磨き、飯を食って江ノ電に乗る。藤沢の店で開店準備を済ませて客を迎え、三時に一旦店を閉めてみんなで遅い昼食を取る。そうしてまた江ノ電に乗り、辻堂へ行く。
岡野が実家の住所を教えて欲しいというので書いて渡してやった。
「インハイの予選結果を教えてくれ」
「勿論です。全国へ進んだと書けるように、頑張ります」
帰国が決定的なものとなって、岡野はどこか吹っ切れたような顔をしていた。これなら大丈夫だなと孔は思った。心残りは少ない方がいい。立ち去ることを惜しんでくれる人たちが居て、それはお互いに寂しいことではあるが、同時に双方にとっても新たな出発となり、それはとても嬉しいことでもあるのだと、この時孔は初めて知った。
五月十八日。ペコが日本へ帰ってきた。
スマイルは成田空港まで出迎えに行ってペコを驚かせることに成功した。とりあえず時差ぼけでふらふらだというのでペコの家まで送ってやり、その日は別れた。
「あとで遊び行くわ」
「わかった」
ドイツ土産だというワインを持ってペコがやってきたのは、三日後の夜だった。
「お前んち来んの、すっげー久し振りだぁ」
ペコは居間に上がりながら嬉しそうにそう言った。
「そりゃそうだよ。日本に帰ってくるのが久し振りなんだから」
「だよなぁ。あー、なんかやっぱ、タタミって落ち着くわぁ」
そう言ってだらりと床に寝そべってしまう。
「俺の部屋、勝手に荷物置き場にしやがってよぉ」
「しょうがないよ。滅多に使わないんだったら自然とそうなるって」
くすくす笑いながらスマイルはワインを開けてグラスに注いだ。そうしてグラスを合わせて、
「お帰り」
「うぃっす。たでーま」
昨日からさっそくトレーニングに行っているそうである。
「試合はいつだっけ?」
居間のテーブルをはさんで向かい合いながら二人は床に座り込んでいた。ペコは持参したつまみを口に放り込みながら、脱力したようにスマイルを見返した。
「六月の五日と六日。もっとぎりぎりまで向こう居ても良かったんだけどよ、練習まぜてくれるところがあったし、ジムも貸してくれるっつうから帰ってきちまった」
「ドイツリーグは大丈夫なの?」
「ああ。三月でツアーも終わったし、日本でいい成績残して土産に持って帰れるんなら好きにしろって、監督が」
「いい人だね」
「ちんちくりんの天然パーマの、へんなおっちゃん」
そう言ってペコはけたけたと笑う。
「んで? 小学校の先生?」
「うん」
このあいだ空港から帰ってくる時に話をした。非常に意外だったらしくて、「マジっすか!?」と大声で驚かれてしまった。
「そんなにおかしいかな」
「いや、そういうわけじゃねえけどよ、まあビックリだぁな」
「うん。みんな驚く」
教職を取る為に、この四月から新しく授業を受けるようになった。おかげで少し忙しい。もっとも、それまでやっていた家庭教師のバイトの日数を減らしてもらったので、まあとんとんといったところだ。
タムラでも正式に生徒を持つようになった。
「週に一回だけだけどね、オババと交代で教えることにしたんだ。まだしばらくは卓球から離れられそうもないね」
「いいんじゃねえの。あんだけ必死こいてやってたんだし、別に無理してやめる必要もないっしょ」
「そうだね」
グラスをつかむペコの指にふと視線を落とす。相変わらずきれいな爪で、つい誘われるようにスマイルは手を伸ばし、指をつかんだ。ペコはグラスを放してスマイルにされるままとなりながら、ぼんやりと口を開いた。
「俺よぉ」
「うん」
「正直言って、ぜってー無理だと思ってたんだよなあ」
「なにが?」
「いや、一年で、んな、なにかみつけるなんてよ」
「僕もそう思ってた」
そう言ってスマイルはまたくすくすと笑った。
「いろんな人のお陰だね。一人で生きてるわけじゃないんだってことが、ようやくわかったよ。…ペコのお陰でもある。ありがと」
「…なあ」
呟きにふと顔を上げると、ペコは不意にテーブルに顔を突っ伏し、それから少し照れたような表情でスマイルを見上げて、
「ヒーロー見参」
ぽつりと呟いた。
「お帰り、ヒーロー」
呟き返してスマイルはペコの手を持ち上げ、そっとキスをした。そうして二人は互いに照れたようにみつめあいながら体を起こして、唇を重ねた。
「……なんか、すっげ緊張する」
「確かに」
そう言いながらもスマイルはペコの頬に手を当てて、また唇を重ねた。
「隣、行ってもいい?」
「…確認すんなよ、んなことぐれぇで」
「じゃあどの時確認取ればいいんだよ」
そう言ってスマイルは立ち上がり、ペコの手を握ったまま並んで腰をおろす。まだ少し緊張したような面持ちでこちらを見るペコの目を見返しながら、スマイルはふとペコの手に唇を触れた。そうして軽く吸い上げてはちろりと舌先で舐めて、ペコの体がびくりと震えるのをみつめた。
「なんか…あん時みてぇ」
『好きだよペコ』
まるで初めて告白したあの晩のよう。
「戻ってきたっていう感じだね」
「うん…お触り魔なのも、相変わらずだしな」
「ペコの体が美味しくてね」
そう言って笑い、スマイルはまたペコの手にキスをする。