「よう」
 肩を叩かれて風間は振り返った。真田の懐かしい顔に向かって、風間は飲んでいたビールのグラスをかかげ、挨拶の代わりとした。
「済まないな、いきなり呼び出して」
「構わん。どうせ暇じゃったしの」
 カウンターに並ぶようにして真田は腰をおろした。そうして注文を取りに来た店員に生ビールを頼み、おしぼりを受け取りながら「どげんした」と聞いた。
「……」
 呼び出しておきながら、なにをどう話せばいいのか、実のところ風間自身にもわかっていないのだった。
「お前、全日本出るんじゃろ。こげんところで酒なんぞ飲んどって、ええんか?」
「うん…まあ、今日も練習には行ってきた。その帰りにふらっとな…」
 監督に飯でも食わないかと誘われたのだが、断わってしまった。そうしておきながらもふと新宿に着いた瞬間、酒が飲みたいなと思った。そんなことを思うのは珍しかったので、つい本能に従ってしまった。
 たいして考えもせず店に入り、ぼんやりと一人でビールを飲むうちに、誰でもいいから話がしたいと思った。それで携帯の電話帳を見ながら思いついた何人かに電話をした。つかまったのが真田だったというわけだ。
「なんじゃ、元気ないのう」
「うん…」
「しっかし、痩せたなぁ。そんなんで平気なんか。試合持つのか?」
「…なあ」
 うっすらと酔いの回った目で真田に振り返る。やってきたビールジョッキを風間のグラスにぶつけながら真田は「なんじゃ」と聞き返した。
「君は、卓球を辞めようと思い切るのに時間が必要だったか?」
「嫌なこと聞きよるのぉ」
 そう言って真田は苦笑した。
「そうさの、まぁわしの場合は、ほれ、あいつじゃ。例のメガネ」
「月本か」
「おお。あいつに負けた時点でもう殆ど思い切っとったからの。うぬぼれとったつもりはなかったが、そんでもあの試合は強烈じゃった。まざまざと力の差ぁ見せ付けられて、気ぃ抜けた感じじゃったわ。ほいじゃからの、まあたいして悩みもせんと…」
 言いながら、ふと驚いたように真田がこちらを向いた。
「なんだ」
「まさか、お前まで辞める言うんじゃなかろうな」
「いや――今のところ、それは、ない」
 途切れ途切れに答えながらも風間は、
 ――そうか?
 自分の言葉に首をかしげていた。
「わからんのだ、自分でもな」
「なにがじゃ」
 風間の空いたグラスにビールを注いで、真田は片手でカウンターに頬杖をついた。
「恐らくあの当時の私だったら今の状況を喜んだだろう。実質的なプロとしての活動だ。そう出来ることを昔から望んでいた。そうは思うのだがな…」
「ほうじゃ、ほんで今度の全日本で成績残しゃあ、名実共にプロじゃろう。なに迷う必要がある」
「そうだよなあ」
 悩むことなどなにもない。ただ今の自分の力を出し切って、全力で戦おうとすればいいだけだ。望んだ場所に居る筈だ。そう思うのに、胸に残るこのつかえはなんなのだろう?
「わしらが行けんかった場所におるがじゃろう。もそっと胸張れぇや」
 真田の言葉に、風間は振り返った。
「お前がそげんこと言うとったら、わしらまでがっかりじゃ。お前は当時から格が違うたしの、プロなるんは当然じゃあ思うとったわ。ほいでも、そげん嫌々やられるんじゃったら、無理せんととっとと辞めてしまえと思うわ」
「…嫌々続けるよりは、か?」
「おお。見とる方がバカ臭いわ。誰に命令されとるわけでもなかろう。いくら好きでも、それで食えんで辞める奴はでらぁおるんじゃ。…まあ、それでも、趣味で続けるんは出来るしの」
 そう言って真田はにやりと笑った。
「どうせ滅多におれん場所におるんじゃ。とことんやりゃあええだけの話じゃろうが。辞めるんはいつだって出来よろう」
「そうだな…好きなものを、無理にあきらめる必要は、ないんだな」
 当たり前のことなのに、風間はまるで初めて教えられたように感じた。
「なんぞ悩みでもあるんか。卓球のことじゃなさげじゃぞ」
 ジョッキを口に運びながら真田は言い、ふと振り返って「またこれか?」と小指を立てた。
「またとはなんだ、またとは」
「いや、お前と酒飲む時はなんでかその話になるような気がしとっての。どこぞのええ女にでもホレよったか」
「――そう簡単に気の持てる人間になりたいと悩んでいるところさ」
 そう言って風間は苦笑した。
「なんじゃ、まだあの女が忘れられんのか。お前も相当しつこい男じゃのう」
「済まないね、しつこくて」
「こりゃあまた、あずったことじゃのう」
 真田も同じように苦笑しながら首を振る。
「なんじゃ、そげんいい女じゃったか」
「…ああ」
「どこがじゃ。顔か? 体か?」
「そんなものはどうでも良かったんだよ」
「ほいたら、なんじゃ。性格か? あ、声っちゅうのもあるな」
「どこがいいのか自分でもわからないんだ。何故なのかがわかれば、似たような人をみつけて、とっとと忘れる」
 そう、別の誰かでは駄目なのだ。去年の冬、ドイツでペコを抱いてそれがはっきりした。抱きしめた時の感触は驚くほどそっくりだった。目を閉じれば手のなかにあるのが孔だと勘違いしてもおかしくないほどに似ていた。けれど駄目だった。純粋に体は気持ち良くあったが、それだけだった。もしかしたら孔もこんなふうに誰かに抱かれているのかも知れないと考えたら激しい怒りが湧き上がり、それでもいいとすら思っていた筈なのにたまらなくなった。
 ――今誰と居るんだ?
 ここで自分がこんなふうにくすぶっていることなど知らないに違いない。
 ――誰を想っているんだ?
『もう来るな』
 なにも言えないまま受け入れてしまったあの朝ばかりを後悔していた。
『全ての出来事には理由がある』
 自ら望んでペコを身代わりに抱いた。それでも駄目だった。体つきが似ているというだけで解決する話ではないのだ。
 人生は選択の連続だ――これもペコが教えてくれた言葉だ。あの朝、自分はなにも言わないことを選んだ。自分で選んだつもりだったのに、悔やんでいることがある。
「そうか」
 思わず風間は呟いていた。
「なんじゃ」
 真田が不思議そうにこちらを見るが、説明している余裕がなかった。風間はいきなり財布から金を取り出してカウンターに置いた。そうして荷物を持って立ち上がり、
「済まない、用事を思い出した。先に帰らせてもらう」
「なんじゃ、お前が呼び出しちょいて」
「申し訳ない。今度埋め合わせする」
 そう答える言葉が既に上の空だった。あわてて混み合った店のなかを抜けて外へ出ながら風間は携帯を取り出す。そうして未だに入力しておいたままの孔の電話番号を呼び出し――ふと、手を止めた。
 ――今更か…?
 勢いに乗って道を歩いていたが、足は止まってしまった。ガードレールに寄りかかるようにして立ち止まり、風間は手のなかの携帯を見下ろした。
 ずっと昔、孔に就職祝いだとプレゼントしたプリペイド式携帯電話の番号だ。これに何度もかけた。そうして孔の声を聞いた。話をし、約束をした。確か一定期間使わなければ番号は抹消されてしまう筈だ。今も孔が同じ電話を使っているかはわからない。ただかけてみたいという欲求に駆られた。
 あの朝、言わずにいた言葉がある。孔の押し黙った顔を見て言えないと思った。もう遅い、そう思って呑み込んでしまった。でも違う。あの時が最後のチャンスだったのだ。こんなふうに会えなくなってからでは言うべき言葉などいくら用意したところで意味がない。
 伝えたい気持ちがあった。それを伝え切っていない、それだけが心残りだったのだ。孔が別れたいというのならそれでも良かった。確かに突然の拒絶には傷ついたが、自分の存在が邪魔であるなら素直に消えた、誰か好きな人が出来てその人と居る方が幸せであるならそれで良かった。
 孔が心配で、幸せであって欲しかった。それだけだ。ただ押し付けるつもりはなかったけれど、聞いて欲しい気持ちを、まだ伝え切っていない。あの朝の後悔はそれだったのだ。
 番号を呼び出したままの画面がふと暗くなった。十字キーを押して再び画面を灯らせたまま、風間はじっと十一桁の数字をみつめる。
 通話ボタンを押せば、つながるかも知れない。あんな別れ方をしておきながら今まで番号も消せずにいた。もしかしたらまたかかってくるかも知れないとひそかに期待していた。あの硬い調子の声で『私だ』と言ってくれることを心の底から願っていた。
 でももしつながらなかったら? アパートへ行くか? 藤沢の店にはまだ居るのだろうか?
『人生は選択の連続だ』
 もしもう一度だけやりなおせるのだとしたら、今度こそはきちんと選んでみせるのに――あの時言っておけば、今の自分にはならなかった。間違えた分岐点はやっぱりあの朝だった。
『もう来るな』
 ――孔、
 ひどく冷静な、少し笑ったままの孔の顔を思い出す。
 ――聞いてくれ、別れたいならそれでいい、ただ、聞いてくれ…。


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