――にしても、
道を歩きながら孔はふと苦笑を洩らした。
――まさか、あいつらがなぁ。
夏と飲むのは珍しいことではなかった。ただそこへ三人目が加わったのは今夜が初めてだった。
「ニイハオぉ」
そう言って林が現われたのだ。去年の六月、受験の為に藤沢の店を辞めていたので、会うのは本当に久し振りだった。それにしても何故林が? と不思議になって夏を見ると、なにも聞かないうちから照れたように笑っていた。
「……ケツの青いガキは嫌いなんじゃなかったっけ?」
「生きてるうちに嗜好は変わるんだよ」
もっとも、この春から林は短大生だという。もう子供とも言い切れない歳だ。髪を切り、薄く化粧をして夏の隣で笑う林は、以前以上にかわいらしく見えた。なかなか似合いのカップルではあった。
「結婚すんの?」
そう聞くと、
「そんな先のことなんかわかるもんか」
まだ付き合い始めて一年ほどだそうだ。それに中国の法律では男性は二十五歳以上でないと結婚出来ない。夏はまだ二十三になったばかりだし、お互い学生である今のうちから将来を決めることは出来ないと言う。それでも孔は、正直うらやましいと思ってしまった。
未来のある奴らはいいな、と。
振り返ってみれば自分には殆どなにもない。いつも失うことを恐れて、自ら手放していってしまった。もっとも、確実な未来ばかりが欲しかったわけではない。辻堂での指導ですら、この先どうなるかわからない状態だ。それでもただ卓球に関わっていたいと思うから続けているだけのことだ。
未来が欲しかったわけじゃない。そんなことの為に風間を好きになったわけじゃない。そんなバカみたいな理由があれば、そもそも好きになどならなかった。最初から拒絶して、こんな苦しい思いをせずに済んだ。自分から選んだことだ、それはわかっている。
理由などなかった。ただ好きだった。――それだけ、だったのに。
ため息をつきながら孔は郵便受けを開ける。山のようにチラシが放り込んであり、つかんでゴミ箱へ捨てようかとも思ったが、幾つか郵便も混じっているようだったので選別の面倒をあきらめてそのまま部屋へ行った。鍵を開けて当然のように真っ暗な部屋に上がり、明かりをつける。もともと広くない部屋がやけに広々と見えるのは、居て欲しいと思う誰かがそこに居ないせいだ。
テーブルの上にチラシの山を放り出して孔は上着を脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。酔いにかまけて眠り込んでしまおうと思うのに、どこか意識が冴え渡っている。仕方なく上着を探って煙草を取り出し、口にくわえて火をつけた。
いつまでもこんなことでは駄目になる。それがわかっていながらも、今の孔にはどうしようもない。煙草を吸うたびにスマイルを思い出し、スマイルを思うたびに風間の腕を思い出す。そうして寂しくなってわずかに泣いて、泣きながらまた煙草を吸い込む。
投げ遣りのように煙草を灰皿に押し付けてふとんをかぶった。頭までふとんのなかに入り込み、じっと息を凝らして、もう手に入らない匂いをわずかにかぎとろうと目をつむる。そうしていつしか眠り込んでいる。
ここしばらくはそんなふうにしていつも眠りについていた。なにをするのも面倒で、テーブルの上のチラシすら片付けるのに手間取った。だからチラシの山のなかにエアメールが混じっていることに気付いたのは、それから二日も経ってからのことだった。
珍しく居間に明かりがあった。いつもなら母親は出勤の日である筈なのに、珍しいなと思いながらスマイルは玄関を開けた。
「ただいまー」
「お帰りぃ、あなたを待ってました」
毛布をかぶったままの母親が、テーブルに突っ伏していた顔を上げてそう言った。
「なに、どうしたの。仕事は?」
「風邪引いちゃってさぁ。冷凍でいいからうどん作ってぇ」
「はいはい」
抱えていた荷物を床に放ると、さっそくスマイルは台所に立った。
「寝るんなら部屋行きなよ。そんなところで起きてちゃ駄目じゃない」
「あんたが帰ってくるかどうか心配でね。また女のところ行ってたらどうしようかと思ったわ」
「電話すれば良かっただろ?」
「…思い付かなかった」
「なんの為の携帯だよ」
苦笑しながらスマイルは冷凍庫からうどんを取り出す。
「熱は?」
「まだ計ってない。計ってすごい熱があったら嫌だもん」
「なんだよ、それ。だいたいこんな時期にどうやったら風邪引くわけ?」
「そうねぇ、酔っ払って薄着のまま毛布もかぶらずに眠ったら引けるかなぁ」
「…もう若くないんだからさぁ」
「嫌な男」
「あなたがそういうふうに産んだんです」
くすくす笑いながらスマイルは、湯のなかでほぐれ始めたうどんを箸でかき分けてゆく。
「あんた最近、女のところ行かないのね。別れたの?」
「――直球で聞きますか」
「下手に遠まわしに探り入れるよりかいいでしょ」
こういう言葉を聞くと、ああ僕の母親なんだなとスマイルは思うのだった。
「別れたよ」
「へえ、なんで」
「…だからさぁ」
苦い顔で振り向くと、母親はにやにやとおかしそうに笑っていた。
「お互いの未来の為です」
「――なによ、それ」
「母さんには関係ないの。あぁもう、持っていってあげるから、ふとん入ってなよ」
「はいはい」
渋々返事をして母親は部屋に消えた。まったく、とため息をつきながらスマイルは醤油を取り出した。
ゴールデンウィークが間近に迫ってきていた。世間は大型連休の波に浮かれてどことなく落ち着きがなかったが、スマイルの心の内はいささか重い。自分で選んだことではあったが、やはり寂しさを覚えてしまうのはどうしようもなかった。
ただ間違ったことをしたとは思っていない。あのままずるずると思い切れないまま孔のところへ行っていたら、いつかまた同じことを繰り返してしまう。手に入れられない孔の心に嫉妬し、傷つけて無用な涙を流させていたに違いない。たとえば普通の男女間の恋愛であれば結婚して子供を作るという選択肢が残されているが、男同士ではそれも有り得ない。
『誰でもいいのはお前の方だ』
――そんなわけ、あるもんか。
誰でもいい筈はなかった。確かに最初の頃は身代わりに抱いていた。あの痩せた背中が本当に驚くほどそっくりで、ペコを思い出す為に何度も抱きしめた。なのに、いつしかそれだけではなくなっていた。
好きにならなければまだ楽だった。どれだけ傷つけようがどれだけ泣かせようが、きっと平気だったと思う。安っぽい言葉で慰めた振りをして都合のいいように利用し続けた。それが出来なかったのは、孔の一言のせいだ。
『忘れるな』
どこまでいっても孔はペコじゃない。そんな当たり前のことをスマイルは忘れていた。孔の一言によってそれを思い出した。そうして孔自身も忘れていないのだと教えてくれた。それでもなお孔は受け入れてくれた。いつでも来いと言ってくれた。
孔を好きになったのはあの晩だった。誰かを手放しで受け入れられたのは、あの時が初めてだったように思う。あれほど失いたくないと思っていたくせに――だからこそなのか、ペコと抱き合うのは寂しいことだった。寂しくてどうしようもなくて、ただ泣いた。しがみつくものがないと生きていけないと思っていた。
そうでない生き方があるのだと教えられた。それを無駄にしたくはない。だからこの寂しさは、ある意味喜ぶべきものなのだ。そんなふうに考えて、最近のスマイルは寂しさを覚えるたびに何故か嬉しくもなるのだった。
――去年には考えられなかったことだな。
そう思い、ふと笑みを洩らす。
「うどん、まだぁ?」
部屋の扉を開けて母親がせがむ。
「今持ってくよ」
山のようにネギを放り込んでスマイルは鍋をお盆に載せる。そうして母親の部屋に入り、
「母さんもさ、離婚した当初はやっぱり寂しかった?」
「まっさか。嫌な奴と別れられてせいせいしたわよ」
「なのになんで結婚したのかなぁ」
「…大人にはね、いろいろあんのよ。っていうか、量多くない?」
「僕も食べる」
そうして親子二人でうどんを片付けながら、スマイルはぼんやりとペコのことを考える。今度会ったら満面の笑みで出迎えてやろう。そう出来るようになったのだと言ってやろう。
『笑えよ』
あの一言がどれほど思いがけない未来を予言していたのか、教えてやろう――。