匂いはひどく乱暴なものなのだなと、道を歩きながら風間は思う。
 四月となった東京の街では春の風が吹き荒れており、あちこちから春の香りを運んできては風間にぶつかり、背後へと去ってゆく。それはわずかに芽吹き始めた緑の香りであり、かすかに湿り気を帯びた土の香りであり、無残にも散りゆく桜の香りでもある。
 かぎたいと思うわけではないのに勝手に入り込んでくる。そうして嫌な記憶を呼び覚ます。
 ここしばらくのあいだ、意識しているわけではなかったけれど、辺りの風景に目をやることが少なくなった。街の変化に気付くことが少なくなった。まるで外界から自分自身を遠ざけようとしているかのようで、そんな自分に気付くたびに、風間はふと苦笑を洩らす。
 大学四年となり、友人たちは就職活動を開始したようだったが、有り難いことに自分は無関係でいられた。企業の所属となった今、以前にも増してひたすら卓球のことだけを考え、試合に勝つことだけを考えていられる。六月に行われる全日本選手権への出場が決まり、今はその試合で上位に残ることだけを目指して練習に励む毎日だった。
 幼い頃からあの小さな白球を追い続けてきた。父親に誘われて初めてラケットを持った日から、ただ頂点を目指して走り続けてきた。望んだ道を歩いているという自覚がありながら、それでもこのところの風間は、ふと我に返り、
 ――私はなにをしているのだろう?
 そんなバカげた疑問を持つことが多い。
 まだ海王学園に居た頃は、自分が勝ち続けることは当たり前だった。そうしてトップを走り続け、頂点に立ち続けて、日本の卓球会を大きく躍進させるのだと――考えもしないうちから思い込んでいた。それが出来るのは自分しか居ないのだ、と。
 ペコによってその思いを打ち砕かれ、そうではない世界も存在するのだということを知った。純粋に楽しむ為の強さがあるのだと教えられた。
 そうしてふと目を醒まされたように、風間は変わった。それまで自分に義務と課していた「ただ勝つこと」という呪縛を逃れ、新しい自分として生きることが出来るようになった。当時の自分はそれを喜んでいた筈だった。
『風間は卓球を嫌っていた』
 そう、以前の私は卓球が嫌いだった。勝つことになんの喜びも見出せないまま、それでも勝たなければ死んでしまうとでもいうかのように、ただ勝ち続けた。その為の努力は人の何倍もした。それを努力や苦労だとは少しも思わなかった。まるで喉が渇けば水を飲むように、ただ練習に打ち込んだ。
 死なない為だ。好きや嫌いで判断出来る領域ではない。
 そんな自分を、一度は捨てた筈だった。
 大学に入り、新しく部活を始め、そうして新しい仲間たちと共に戦った。基本的に個人競技であるとはいえ、それまでとは違う心持ちで試合を楽しんでいた。負けることは勿論悔しいが、それでも負けたゆえに更に上を目指すことも出来た。
 今となにが違うのだろう?
 ほんの二年ほど前の話だ。あの頃の自分はひどく幸せで、この幸せが続かないわけがないと思い込んでいた。気の合う仲間、純粋に競技を楽しむ心、そして――孔。
『もう来るな』
 あの時、孔は笑っていた。まるでそう言うのが当然のような顔をしていた。なにを言っても聞き入れてくれないように見えて、だから風間もなにも言えなかった。
『わかったよ』
 ただそう言ったのだ。君がそう言うのなら、そうしよう。同じように笑って、泣き言の一つも洩らさず、ただ受け入れた。
 それまで当然のようにあった幸せが、その一言で全て崩れてしまった。茫然としながら、ただ時を過ごした。大学三年となり、企業の所属となり、実質的なプロとして活動しながら、それでも風間は時々思う。
 ――私はなにをしているのだろう?
 高校生の頃は、目指す必要もないままただ頂点へ向かっていた。あの頃は苦しかったが、なにも悩まずに済んだ。ただ恐怖と戦っていればそれで良かった。それが当たり前で、他の生き方があるなど思いもしなかった。ほんのちょっとの偶然でそれ以外の世界を知り、そうして自らの手で幸せをつかんでおきながら、今度はその幸せ自らにそこから放り出されてしまった。
『もう来るな』
 誰かを恨むことが出来たらどれだけ楽だろう。あの幸福を知る以前へ戻ることが出来たらどれほどいいか。
 時折ふと立ち止まり、どこで選択を間違えたのだろうと考えることがある。どの時点でなにを選ばなければ今のようにならなかったのかと何度も考えたが、どうしても今ここに居る自分にしかなれなかったのではないかと結論付いてしまうのだった。
 戦うことの楽しさを知っておきながら、今は戦うことの意味を失ってしまっている。ただ楽しいだけで乗り切れる世界ではない。それは今も昔も変わらない考えではあるけれど、だからこそ風間は、なにをしているのかと愕然とすることがある。
『お前、卓球、好きか?』
 好きだった筈だ。ずっと嫌いではあったが、好きになれた。そう思っていた。なのに今はまるで自らを苦境に陥れる為に毎日を過ごしているようで、そんな人生にどんな意味があるのだと、また風間は愕然とし、ふと立ち尽くす。
 春の匂いは、過去の幸せを思い出させる。あの頃へ戻りたいと思わせる。なにも知らず、なにも迷わず、ただ幸せで居られたあの頃が、今はひどく懐かしい。
 誰かを恨めればどれほど楽か。
 忘れることも、恨むことも嫌うことも出来ないまま、春の風のなかでまた風間はぼんやりと立ち尽くし、幸せだった過去の匂いをかぎとっている。


 ――飲みすぎた。
 孔は酒臭い息を吐き出しながら、人通りの少ない道をぶらぶらと歩いている。夏に誘われて飲みに行くのはいつものことだったが、意識しないうちにスマイルのことを考えてしまい、忘れようとしてつい飲みすぎてしまった。
 スマイルに鍵を返されてからまだ二週間ほどしか経っていない。もう来ないのはわかっていたが、それでも毎日アパートへ帰るたびに、ふと台所の窓から明かりが洩れていないかと期待してしまう。そんな自分に気付くたびに孔は自己嫌悪に陥り、せっかく減りかかっていた煙草の量が再び増えつつあった。
 以前は風間のことを思い出す自分が嫌で、気をまぎらわせようと煙草を吸い始めた。なのに、今では吸うたびにスマイルを思い出す。後ろから抱きしめるあの腕の温もりを思い出し、首筋にかかるかすかな息を思い出し、寂しくて、たまに泣いた。そうして口寂しさを忘れようとまた煙草を吸ってしまい、結局のところ、今ではどうしてもスマイルのことが忘れられないのだった。
 同じことを自分はしたんだと、孔は思う。
『もう来るな』
 突然の拒絶は同じだった。ただ違ったのはそのあとのフォローだ。スマイルはきちんと説明してくれた。もう自分を傷つけたくないのだと言ってくれた。自分だって同じことを風間に対して思っていた筈だ。なのになにも言わず、なんの説明もしないまま、ただ言った。
『もう来るな』
 ――ひどいこと、したよな。
 同じことをされて、ようやくそれがどんなに辛いことなのか、実感出来た。後悔は以前よりも大きく広がっている。
『かけてみれば?』
 謝りたいとはずっと思っている。スマイルと海で出会って、今度はすがりつかれるようになってから、それがさほど気分の悪いものでないことがわかった。たとえ同情であったとしても、嫌だと思う相手と抱き合うことは出来ない。それに、
『忘れるな』
 あの晩から二人とも少しずつ変わっていった。風間のことを忘れるのは無理だったけれど、そうしながらもスマイルに惹かれていった。ただの同情ではなく、あの腕の温もりが気持ち良かった。
 好きだと思う相手と一緒に居られるのがどれほど幸せであるのか、スマイルは教えてくれた。昔はいつこの腕を失うのだとそればかりを恐れて、風間に抱かれていても寂しくてたまらなかった。だから言ったのだ――もう来るな――失う羽目になったのは同じことなのに。
 もう一度勇気を出せばいいだけの話だ。それはわかっていた。あの朝、風間の愕然とした顔を見ながら、それでも最後まで突っぱねたあの時の気持ちを思い起こせば、電話をかけてみることぐらいなんでもない筈だ。それが出来ないのは、嫌われているという事実を確認することになるのではないかと思うからだ。
 嫌われていて当然だ。それでも、それを再確認する勇気はまだ出なかった。いつかはと思うものの、なかなかきっかけがつかめないまま、このままずるずるいってしまいそうな気もする。


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