「お隣お邪魔しまーす」
着替え終えた足立がそう言って脇に立った。材料を取り出してざくざく切り始めている。
「そういえば、あの時はフタありがとね」
突然振られた話題に、思わず驚いてしまった。その話してもいいんだ、と、内心動揺しながら「いいえ」と短く返事をした。
「結局あのあと、食べられないまんま寝ちゃってさあ」
「鍋はどうしたんですか」
「次の日の夜に頑張って食べたよ。二日酔いがすごかったんだけど、捨てるのももったいないし」
「……あの時の足立さん、すごく酔っ払ってましたもんね」
確か九月の終わり頃だった。そういえば足立のアパートへ来るのはあれ以来だ。ふた月も経っていない筈なのに、ずいぶんと昔のことのように思えるのが不思議だった。
味噌汁だけ作ると仕事がなくなってしまったので、仕方なく部屋へ行った。ベッドに腰掛けてテレビを付け、見るともなしにニュースを眺める。ふとベッドの隅にアイちゃんが居るのをみつけた孝介は、それを腹に抱えてみた。座らせる格好で抱きしめると、ちょうどアゴの下にアイちゃんの頭が来る。ふかふかの生地も温かくて気持ちいい。
「お。君もアイちゃんの魅力に気付いたね」
卓上コンロと土鍋を持ってやって来た足立が嬉しそうに言った。
「これ、マジで抱き心地いいです」
「でしょでしょ。さわってると気持ちいいんだよねー」
立ち上がった足立は台所から材料を持って戻ってきた。切ったキャベツを無造作に放り込み、あいだに肉を挟んでまたキャベツを入れる。隅にキノコを押し込めるとまたキャベツだ。前回見た時と同様、鍋からあふれんばかりにキャベツが入れられた。そこへフタを置くと更に上へ雑誌を乗せて無理矢理フタを閉め、コンロに火を付けた。今にも消えてしまいそうなほど小さな火だった。
「はい。あとは出来上がるのを待つばかり、と」
そう言ってこちらに向いた。横にずれて座る場所を作ったのだが、足立はベッドに上がると孝介の背後に回り、アイちゃんの代わりとばかりに力いっぱい抱きしめてきた。
「なんかこうするの、すごく久し振りな気がする」
「ここに来るのが久し振りですから」
「そっかぁ。いつ以来だっけ?」
返事は一瞬だけ遅れた。
「九月以来です」
「……ああ」
尻の位置をずらして足立にもたれかかった。見上げると、足立は一度孝介の髪を梳き、探るようにこちらを見返してきた。孝介は片手で首に抱きついて唇を重ねた。唇が離れたあとは互いに熱い息がこぼれた。伏し目がちに顔を寄せると、足立は再び髪の毛を梳き始めた。
「またこうやってここに来れるなんて思ってなかったですよ」
「……」
足立は額にキスを落として返事とする。そのまま抱きしめられた。あいだに挟まれるアイちゃんがかわいそうで、孝介はそれを脇に置いた。そうして、同じように腕を伸ばして抱きついた。
しばらく無言の時間が続いた。少し苦しくなって身を起こすと、足立はぎこちなく笑っていた。孝介も同じように笑って額を合わせ、
「だから嬉しいです。また呼んでもらえて」
「……こんなところで良かったら、いつでもおいで」
「はい」
足立は嬉しそうに唇を押し付けてきた。
腹は減ったが、残念ながら飯がまだ炊けていないのでとにかく待つしかなかった。足立に寄りかかってアイちゃんを抱きしめ、また抱きしめられながらテレビを見た。何気なくアイちゃんの頭を撫でた時、そういえばお前がきっかけだったんだよなと孝介は思い出した。
「足立さんにひとつ質問なんですけど」
「んー? なに?」
「いたいけな少年の唇を奪った人はお詫びになにをすればいいと思いますか」
「んーっとねえ…………あれ、前にも似たようなこと訊かれなかったっけ」
「訊きましたよ」
足立が不思議そうに脇から顔をのぞき込んできた。孝介は笑って足立の手を叩き、「いいから早く答えてください」と催促した。
「なんだっけ。えーっとね、……あぁそうそう、確か『礼儀として心も奪ってあげるべきだ』って答えた気がする」
「正解」
孝介の呟きに、足立は嬉しそうにガッツポーズで応えた。
「で? それがどうしたわけ?」
「……」
自分で言っておきながら恥ずかしくなってしまい、孝介は黙り込んだ。脇からのぞき込む足立の目が、なにかを疑うように横顔へと固定された。
「なに。なんなの」
「……その通りになったなあ、って」
「なにが?」
「なにがって――」
――言わなきゃよかった。
孝介は恥ずかしくてたまらず、アイちゃんを抱きしめてうつむき、顔を隠した。
「……その、」
「うん」
「俺が、足立さんに」
「僕が君に? なに?」
困って目を上げると、足立はなにがおかしいのかにやにやと笑っていた。どうやら気付いているらしい。腹立ちまぎれに足をバシバシ叩いてやると「あだだだだ」と悲鳴を上げて腕を押さえつけてきた。
「わかってんならしつこく訊くな!」
「話振ってきたの君でしょうに! なんで僕が怒られるかなぁ」
そう言っておかしそうに笑い、力いっぱい抱きしめられた。
「そっか、あん時かぁ」
クリーニング代どうのの時でしょ、と言うので、そうじゃないと首を振った。
「その前です」
「その前? その前って、なんかあったっけ?」
「覚えてないんですか」
そうじゃないかとは思っていたが、本当に覚えていないとなると少し落ち込みたくなってきた。
「ゴールデンウィークのあとくらいですよ。叔父さんと二人で酔っ払ってうち来たじゃないですか」
「堂島さんと? そうだったっけ?」
「……ホントに覚えてないんですか」
足立は困って頭を掻き、堂島さんとはよく呑むからなぁと言い訳のように呟いた。
「とにかく、酔っ払って家に行ったわけだ」
「そうです。で、そのままソファーで寝ちゃって」
起こそうとしたらアイちゃんと間違えて抱きつかれたと教えてやると、足立は一瞬考え込んだあと、いきなり大声で笑い出した。
「俺にとっては笑い事じゃなかったんですけど」
「そうだったんだ、いやごめんごめん」
足立は笑いを収めたあと、我慢しきれないのか再び笑い声を上げ始めた。孝介はむくれてそっぽを向いた。足立は再びごめんと謝り、
「いやあ、なんか嬉しいなあ」
でも君でよかった、と呟いた。
「よかったって、なにがですか」
「んー? うん」
足立はリモコンを取り上げるとテレビを消してしまった。そうしてアイちゃんを抱きしめる手に自分の手を重ね、ぎゅ、と孝介を抱きしめた。
「……奪われたのは僕の方ですよ」
「また、そんなこと言って――」
「ホントだよ」
続く言葉はなかった。孝介が振り向くと、足立は柔らかく笑いかけてきた。茶化されているのではなかったようだ。孝介は突然恥ずかしくなって顔をそむけた。その時、足立の腕がまた孝介を抱きしめた。
「君しか居ないんだ」
消え入るような声だった。孝介は何故か緊張してしまって言葉が返せなかった。
頬に唇が触れた。重ねられた手が動いて指を絡ませてきた。
「……あの、」
「嫌?」
「……嫌じゃ、ないです」
「じゃあこっち向いて」
孝介は恐る恐る振り向いた。だが恥ずかしくて目が上げられなかった。
唇が近付いてくる。孝介はきつく目をつむった。噛み締めた唇に足立のそれが重ねられて、そっと離れていった。
どちらも、なにも言わないままだ。
ゆっくりと目を開けると、まだ足立が見ていた。孝介は恥ずかしさに耐えきれず、うつむいて顔を隠した。
首元に鼻先が当たった時、煙草の匂いがした。両手には足立の温もりがある。心臓が大きく脈打っているのがわかった。足立は苦笑すると孝介の体を抱え直した。
「なに照れてんの」
「知りませんよ……っ」
本当に、なんでこんなことが恥ずかしいんだろう。こうやって抱きしめられるのは初めてではない筈だ。キスなんか今までに何度もした。手を握られた程度で今更動揺する謂れはないのに。
なのに、足立の呼吸が側にあるだけで緊張してしまう。それが目元や頬に触れるだけで、恥ずかしくて逃げ出したいほどだ。
「顔見せてよ」
ねだる言葉と共に、足立が顔を寄せてきた。見られていると思うと余計に動けなかった。それでも孝介は、羞恥と戦いながらゆっくりと顔を上げた。その努力に応えるかのように、足立のかすかに笑う目が出迎えてくれた。
「……足立さん」
「うん?」
「……もう一回言ってください」
今度は足立が照れる番だった。だが彼は孝介ほど動揺しなかった。片手を離してゆっくりと髪を梳くと、
「君だけだよ」
そう言って額にキスを落としてきた。
握り合った片手に力を込めた。それが合図になったかのように、二人は長い長いキスをした。