「ホントにいいの?」
 足立の言葉に孝介はうなずいた。さっきから何度こうやってうなずき続けているのかもう覚えていない。足立はため息をついて横を向く。納得がいかないという顔をしているのは見なくてもわかった。だけど、これだけは譲れない。孝介はうつむいたまま唇を噛み締めた。
「あのさ、そんな大袈裟に考えることじゃないと思うんだけど」
「……足立さんに、俺の気持ちなんかわかりませんよ」
 言った瞬間、下からアゴを軽く殴られた。危うく舌を噛むところだった。孝介は足立を睨み付けた。真似をするように彼もこちらを睨み付けている。
 ――なんだってんだ。
 なんでこんなことになったのか。二人の異様な佇まいに気付いて何人かの女性が遠巻きにこちらを眺めている。いい加減にしないと警備の人間が出てきそうだ。
 足立はもう一度大きなため息をつくと、ガリガリと乱暴に髪の毛を掻きむしった。
「いいじゃない、買おうよ! お茶碗とお椀! あと箸! 専用のヤツ!」
「だからってわざわざヒヨコ柄選ぶことないでしょうが! そんなに欲しかったら自分で使ってくださいよ!」
 足立は孝介が使うようにと購入予定の茶碗を握りしめている。さして食器にこだわりがあるわけではないが、だからといって足立がひと目惚れしたという水色の柄にヒヨコが一周ぐるりと泳ぎ回るそんなファンシーな茶碗だけは絶対に御免だ。サイズから見て一応は大人用であるらしいが、どういった人がこんなものを好んで買っていくのだろう。いや、悩む必要はなかった。目の前の大人が欲しい欲しいと叫んでいるのだ。
 孝介はため息をついて棚に目を移した。日用品を置いている棚には申し訳程度に食器が並んでいた。本当は紙皿と割り箸で充分なのだが、足立は孝介専用の食器を買うと言ってきかなかった。このまま放置しておくとなにを選ばれるかわかったもんじゃない。孝介は味噌汁椀と箸を適当に選んで足立が持つカゴに放り込むと、「ホラ、行きますよ」と言って歩き出した。
「このお茶碗、買ってもいいの?」
 棚の前に突っ立ったまま足立が訊いた。孝介は足を止めて振り返った。まるでお菓子をせがむ子供のようだ。買ってもいいと確約が得られなければ梃子でも動きそうにない。孝介は仕方なくうなずいてみせた。
「ただし、使うのは足立さんにしてくださいよ」
「だって君が使う用に買うのに」
「足立さんが今まで使ってたヤツ貸してください。それでいいでしょ」
 嬉しそうににへらと笑うと、足立は大事そうに茶碗をカゴに入れ、遅れてあとをやって来た。カゴにはまだ食材がなにも入っていない。ジュネスの食品売り場へ着いたとたん、真っ先に日用品の並ぶ棚へと引っ張ってこられたのだ。
「早く買い物済ませましょうよ。俺、腹減ってきました」
 孝介が言うと、
「よし。じゃあ目指すは野菜売り場!」
 そう言って足立は嬉しそうに孝介の頭を撫でた。子供じゃないんだからという文句は、右の耳から左の耳へと呆気なく抜けていったようだ。
 今日は定時で上がれそうだと電話をもらったのは、孝介が部活を終えて学校を出ようとした時だった。飯でも一緒にどうだと誘われ、キャベツ鍋を食べてみたいと言ったら、じゃあうちで作ろうというわけで足立のアパートへ行くことになった。
 孝介は気にしていなかったが、足立は紙皿で飯を食わせることに抵抗を感じていたらしい。お陰で買う買わないの押し問答が繰り広げられることになったのだった。足立の子供っぽさには呆れることも多いが、そういうところも魅力に感じてしまうのは、惚れた欲目というヤツだろうか。
 十一月も半ばとなれば温もりが恋しい季節となる。特に今年は寒くなるのが早いようで、売り場にも鍋の材料が山ほど揃っていた。しかし特売の札を付けられた白菜の横を素通りして、二人が向かったのは段ボールのなかに無造作に放り込まれたキャベツの山だった。
「ホントにキャベツしか入れないんですか?」
 足立は真剣な目でキャベツを選別している。
「いや、別にほかの野菜入れたっていいんだよ。どうせだから今日は肉とキノコ入れよっか。あとお豆腐とー」
 お目に適うキャベツがみつかったようだ。足立は一玉を拾い上げるとカゴに入れて歩き出した。
「鍋だけじゃ淋しくない? ほかにもなんか買っていこうよ」
「そうですね」
 今日は足立が全部作るというので、孝介はあとに付いて回るだけだ。とはいえ「僕、料理なんか全然出来ないから」とにこやかに宣言されたとおり、手が伸びるのは出来合いの総菜ばかりだった。せめて味噌汁だけでも作るからと言うと、
「じゃあキャベツのお味噌汁がいいっ」
「……あんたの半分はキャベツででも出来てるんですか」
「あながち間違ってないかも」
 そう言っておかしそうに笑った。
 食材と一緒にお菓子もしこたま買い込み、会計を済ませたあと、二人は荷物を分けて持ちながら足立のアパートへと向かった。日は既に暮れて辺りは暗く、ひやりとした空気に孝介は時折身を縮ませた。隣を歩く足立も「さむぅ」と言って肩をすくめ、そろそろコート出さなきゃかなとぼやいてみせた。
「っていうか君、そんな格好で寒くないの?」
 学生服の前をはだけた孝介を見て足立が訊く。
「まぁ最初は寒いですけど、動くとちょうどいいんですよ。下手に着込むと逆に暑過ぎて……」
「はー。代謝がいいんだね」
「足立さんと違って若いですからね」
 孝介の言葉に振り向いた足立は、歩きながら空いている方の手を伸ばし、ぎりりと頬をつねってきた。
「なぁんか最近の君、妙に生意気だよねークソガキが」
「足立さんこそ、最近やたらと手が出ますよね。中年の癖に落ち着きがないっていうか」
「ちゅ、中年はまだ早いよ! せめて三十歳になってっから言ってよ!」
「一回り近く年上の大人なんざ二十代だろうが三十代だろうが同じですよ!」
「うわーマジでムカつく!」
 足立は首に腕を掛けると頭を小突いてきた。孝介は笑って腕から逃げた。
「も、いいよ。そんなこと言うなら鍋食べさせてあーげない」
「いいですよ。愛家で食って帰りますから。じゃ」
 そう言って荷物を差し出すと、足立はむくれて腕を隠してしまった。孝介は無言で荷物を差し出している。
「……ホントに帰るの?」
「だって足立さんが食べさせてくれないって言うし」
「……君がどうしてもって言うんなら、食べさせてあげてもいいよ」
「どうしても食べたいなあ」
「よし、来い!」
 足立はにっかりと笑うと先に立って歩き出した。孝介は後ろに付いて歩きながら苦笑を噛み殺している。まったく、この人は二十七歳の皮をかぶった子供なんじゃないのか。
 最近はこういうやり取りが多い。お互い言いたいことをポンポン言い合っている。以前となにが違うんだろうと考えると孝介にはわからないのだが、知らないあいだに築いていた壁が取り払われたかのような風通りの良さを感じていた。
 足立が前よりも近くに居る。かけられる言葉に、向けられる笑顔に、前よりもずっと近付いている気がする。
 もっとも、こうして笑い合えるのには理由があった。孝介たちは無事に菜々子を救出したのだ。同時に生田目も捕まえた。菜々子はまだ面会謝絶の危険な状態だが、それでもシャドウの、あの世界の犠牲にせずに済んだ。今は回復を祈るばかりだ。
 足立の部屋は相変わらずだった。しかし最後にここを訪れた時よりはマシな状態にあった。床に散らばる洋服はなんとなくだが規則性を持たせて一箇所に集められているし、衣装ケースと段ボールは驚くことに重ねられていた。しかも雑誌がビニール袋に入れてまとめられている。孝介はびっくりして「どうしたんですか」と訊いてしまった。
「なにが?」
 台所で荷物を取り出しながら足立が振り向いた。
「なんとなく部屋を片付けようとしてる雰囲気がありますよ」
「いや、なんとなくじゃなくって、一応片付けようって頑張ってるところなんだけど」
 寝癖の残る頭を掻いて足立は悄然と佇んでいる。孝介はもう一度居室へと振り返り、
「うん。すごい頑張ってる」
「……褒められてるように聞こえないのは、なんでなんだろうなあ」
 ふと背後から抱きつかれた。頬を擦り寄せて一度顔を離すと、不満そうに表情を曇らせたままじっとみつめてくる。慰めるように頭を撫でてやると、小さく笑って唇を重ねてきた。
「お客さん呼びたいからね。頑張ってるんですよ」
「……え? あ、お客さんって、俺のことですか?」
「ほかに誰が居るの」
 友達とか居ないのかな、とちょっと思ったが、口には出さないでおいた。足立は自分と同じく春に稲羽市へ越してきた人間だし、職場の人間関係というものがどういう感じなのか、孝介には未だに想像がつかなかったからだ。
 足立が着替えているあいだ、先に味噌汁を作ってしまおうと孝介は台所に立った。ここも、流し台だけだが磨いたような形跡があった。そもそも殆ど料理をしないという言葉通り、ガス台も換気扇もそんなに汚れているわけではない。それでも自分の為に綺麗にしようと思ってくれるのは、やはり嬉しかった。


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