足立の部屋は相変わらずだ。
「ようこそ、僕のお城へ」
そう言って足立はドアを開け、孝介をなかに招き入れた。台所に荷物を置いて出てきた言葉は、
「相変わらず汚い城ですね」
「広いから手が行き届きませんで」
「嘘ばっかり」
孝介は思わず笑ってしまう。どう見繕っても六畳一間の1Kだ。せめて座る場所だけでも作ってくれと頼んでおいて、孝介は台所に立った。
それにしても、馴れない家の台所というのは戸惑ってしまう。どこになにがあるのかすぐにはわからないし、包丁やまな板もなんとなく使いづらい。
「そういえば君、回鍋肉って作ったことあるの?」
しばらくしたあと、居室との境目に腰を下ろした足立が煙草に火をつけながら訊いた。
「初挑戦です」
「うわ、マジ? 大丈夫?」
「平気ですよ。裏に作り方書いてあるし、その通りにやれば最悪食えないものは出来ませんから」
味噌汁用に茹でているキャベツの具合を確かめつつ孝介は答える。
「っていうか、部屋の片付け終わったんですか」
「待って。今、すっごい集中して考察してる最中だから」
「なにを?」
「君に裸エプロンが似合うのかどうか」
思わず吹き出した。
「……包丁投げますよ」
「うわー、冗談冗談! えーっとね、」
足立は一旦部屋の奥へと消えた。そのまま一生消えててくれと一瞬本気で考えてしまった。なんであんな間抜けと俺は一緒に居るんだろう。なんかやたらと口は軽いし平気で恥ずかしいこと言ってくるし、それでまたこっちも恥ずかしかったり嬉しかったりとか、なんだ、俺ってもしかしてマゾなのか? などと落ち込み気味に孝介が考えていると、不意に戸口からサルのぬいぐるみが顔をのぞかせた。
「今、アイちゃんと一緒にすっごい応援してる。アイちゃんが、『お兄ちゃん頑張れー』って」
恐る恐るといった風に足立も顔をのぞかせた。アイちゃんを抱きかかえ、腕を握ると大きく手を振ってみせる。その姿がなんだか子供みたいで、孝介は思わず笑ってしまった。
「アイちゃんなら、許す」
「えへへー」
「足立さんは部屋の片付け」
「アイちゃん、お願い」
「動けよ」
予想通り、それなりのものは作ることが出来た。今日の献立は回鍋肉と冷奴と冷やしトマト、それからキャベツの味噌汁と炊き立ての白米だ。あまり手のかかった食卓ではないのに、足立はものすごく嬉しそうだった。
「いっただっきまーっす」
味噌汁を口に含んだ足立は、ひと言「美味い!」と驚いたように唸った。
「なにこれ、すっごい美味しいんだけど! どうやって作るの?」
「別に……キャベツ茹でるだけですよ。生でも食えるんだから、適当に茹でて味噌溶かすだけです。簡単だから作ってみるといいですよ」
「うん。また作って」
当然のように言って回鍋肉へと箸を伸ばしている。
――またこの人はこういうことを、
ごにょごにょごにょ。
孝介の分の食器は、結局紙皿と紙コップで代用となった。箸はコンビニでもらった割り箸である。確かに少し味気ないが、だからといってちゃんとした食器まで揃えるのは、やはりやり過ぎであるように思えた。
正直こんな風に一緒に飯を食う機会などそう滅多にあるとは思えないし、そもそも自分が居るのは来年の春までなのだ。足立はそれをわかっているのだろうか。
「足立さんは東京に戻る予定はないんですか?」
「んー? ないと思うなあ」
冷奴を崩しながら足立は肩をすくめた。
「戻りたいのは山々だけど、辞令が下りない限りはどうしようもないしね」
「そっか……」
「君がこっち戻ってくればいいじゃない。高校出たらさ」
飯を掻き込んだ足立は当然のように言い放った。孝介は思わず苦笑する。
「またそういうこと言って――」
「本気だよ」
飯を噛みながら足立が振り向いた。味噌汁で口のなかのものを飲み下し、「どうせしばらくここから異動しないだろうしさ」と続ける。
「いいじゃない。待ってるよ」
「……無理ですよ」
「なんで?」
「だって――」
言葉が続けられない。持ち上げようとした箸は手に握られたままテーブルに戻ってしまった。
そんな上手い話があっていいわけがない、と孝介は考えている。来年の今頃、自分はここに居ないということすら上手く想像出来ないのだ。一年以上も先のことなんて、わかる筈がない。
「……一応進学予定ですし」
「じゃあ大学出たら」
「どこに就職しろっていうんですか」
「ジュネスとか。あ、それとも警察入って後輩になる? そしたらずっと一緒に居られるよ」
「試験、通るかわからないし」
「僕が教えてあげるよ。これでも一応国家試験通ってるし」
「……」
「ね。それがいいよ」
孝介は困って顔を上げた。
「……なに怒ってんの」
「怒ってないですっ」
口から飛び出た憤りの強さに自分で驚いていた。それで気が付いた、確かに怒っている。この大人はなんでこんなに無責任なことばかり平気で言うのだろう。他人事だから言うのは簡単だと思っているのだろうか。
「そんな……一年先に自分がなにしてるのかわからないのに、卒業したあとのことなんて考えられるわけないじゃないですか。いや、一応進路は考えてますけど、……出来ることと出来ないことがありますよ……っ」
ずぞぞ、と足立が味噌汁を吸い込んだ。
「そりゃそうだ。来年僕がここでなにしてるかなんてわかるわけがない」
「でしょ?」
「でもある程度の予想は立つ。とりあえず僕は稲羽署に勤めてるだろうし、君は東京で高校三年生やってる。受験に向けて勉強中ってとこかな。どこ行くんだろうね。一応大学らしいけど、専門学校に進路が変わってるかも知れないし、もしかしたら市役所か区役所の職員になろうとして公務員試験受けようとしてるかも知れない。未来は選び放題だ。僕と違って」
「……」
「もしかしたら可愛い彼女とか出来てるかもね。僕のことなんか忘れてさ。まぁそれもいいと思うよ。なんてったって一年も時間があったらなんでも起こるんだ。僕だって、去年の今頃はこんな田舎に飛ばされるなんて想像もしてなかったし」
そうして食器を置くと、不意に片手を伸ばして首の後ろをつかんできた。
「ねえ、なに怒ってんの」
「……怒ってないです」
ただ、未来が怖いだけだ。
足立が語るように、ここへ戻ってこれたらどれだけいいかと思う。仲間と、菜々子や遼太郎と、そして足立と、当たり前のように暮らせたらどれだけ幸せだろう。
でも、ここに居たいと願うのと、実際に居続けるのは全く別のことだ。願うだけで全てが思い通りになるなら、誰も努力などしない。夢に破れる人間など一人も存在しない。
自分にそれが出来るのかと考えると、そんな自信はかけらもない。
足立は小さくため息をつくと、あのね、と口を開いた。
「言っとくけど、将来のこと考えて悩んだり怯えたりするのなんて時間の無駄だよ。人間に出来るのは選ぶことだけなんだから」
「……どういう意味ですか」
「起こっちゃったこと後悔するのは意味ないでしょ? それはもう起こっちゃったんだから、変えようがないの。だから『なんであの時ああしなかったんだ』って悩むのは意味ないの。悩んでる暇があったら目の前の問題をどう片付けるか考える。でね、まだ起こってもない未来のことを心配するのも意味ないの。だってまだなにも起こってないんだから心配しようがないでしょ?」
そう言って足立は髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回してきた。
「出来るかどうかとか、今はその時期じゃないから考えなくていいんだよ。そういう選択肢もあるっていうだけの話。――ま、僕はかなり本気だけど、来年の君がどう思うかは別の話だしね」
「……」
ぐしゃぐしゃになった髪の毛を指で梳き直したあと、足立はあらためて頭を撫でてきた。そうしてこちらをみつめ、ね、と呟いて笑った。
「ご飯、食べよ。冷めちゃうよ」
「……はい」
それから二人は殆ど喋らずに食事を続けた。孝介は食べているあいだ、ずっと「来年の自分」を考えていた。
不思議なことだが、足立に言われるまで孝介は自分の将来を漠然としか考えていなかった。とりあえず大学にでも行ってどこかの企業へ就職するのだろうとしか思い描いていなかった。
稲羽市へ戻ってくる。――それを選ぶことも可能なのだと、初めて教えられた気分だった。
勿論それまでには色々とこなさなければいけないことがあるだろう。勉強もそうだし、仕事もそうだ。だけど、もし自分が望めば、可能に出来るかも知れないなんて。
――思ってもみなかったな。
親の事情で一時的に預けられているだけだ、という意識しかなかった。孝介はまだ稲羽市に「住んでいなかった」ようだ。それを、同じくよそからやって来た足立に教えられるとは。
孝介はそんな自分がおかしくて、ふと苦笑を洩らしてしまう。それを見た足立が「あ、やっと笑ったー」と嬉しそうに言った。