「も、放してくださいよ」
「やーだー」
 食事のあと、交代でシャワーを浴びて軽く汗を流した。すっきりしたところでもう一度汗を掻き、べたつく肌を再びすっきりさせたいのに、どういうわけか足立が放してくれない。いつかのようにベッドの上で足立は壁に寄りかかり、後ろから孝介の体を抱きしめている。扇風機が回っているとはいえ、くっついていればそこに熱が溜まり、じんわりと汗が吹き出すのがわかった。
 足立は汗で湿った孝介の後ろ髪を掻き上げると、首筋に唇を触れてきた。孝介は息を呑み、それから静かに息を吐いた。足立は抱きしめる腕に力を込めてきた。
「あーあ、君がぬいぐるみだったらよかったのになあ」
 と、突然ぼやく。
「どういう意味ですか」
「だって、そしたらずっと一緒に居られるし」
「アイちゃんが居るじゃないですか」
「アイちゃんはアイちゃん、君は君でしょ。あーあ、どっかに君の等身大のぬいぐるみ売ってないかなあ。もし売ってたら、幾らでも出しちゃうんだけどなあ」
 完二に頼めば作ってくれそうだな、と一瞬思ったが黙っていた。
「っていうか、等身大ですか」
「そう。すっごい大事にしちゃうよ。朝晩はおはようとおやすみのちゅーしてさ、夜は抱きしめて眠るの」
「……それ、単に抱き枕が欲しいって言ってるだけでしょ」
「違うよ、そんなことないよっ。――いや、それも一理あるけどそれだけじゃないよっ」
「説得力ないです」
 振り返って睨むと、足立は笑いながらキスをしてきた。
「でも実際は、本物が一番だけどね」
「……それはどうも」
「ね、今日泊まってけば?」
 どうせ明日から夏休みでしょ、と足立は笑う。思わずうなずきかけたが、窓の外の雨音で孝介は我に返った。
 この調子では明け方まで続きそうだ。一応テレビをチェックしなければ。名残惜しいが、孝介はゆっくりと足立の腕から逃れ、首を振った。
「帰ります」
「えー、帰っちゃうのー?」
「……叔父さんまだ帰ってないかも知れないし、そうしたら菜々子が一人きりで留守番になっちゃうし」
 足立は不服そうだったが、菜々子の名前を出したせいかそれ以上はなにも言わなかった。ただ、煙草を買いに行くからと言って孝介と同じようにシャワーを浴び、仕度が整うまで出ていくことを禁じられた。
 雨はボツボツと音を立てて傘に当たる。熱せられた湿気が薄い霧となって辺りに漂っている。全身にまとわりつくような熱気が、なんとなく気持ち悪い。雨が降っているのに少しも涼しくないというのが嫌だった。
 二人はぽつぽつと話しながら夜道を行った。天気のせいか時間のせいか、道ですれ違う人は一人もなかった。
「夏休みはなんか予定あるの?」
「今のところは特に……」
「じゃあさ、今度どっか遊びに行こっか。レンタカーでも借りてドライブとか」
 約束なんか出来るんですか、と言いそうになって孝介は言葉を呑み込む。いつになるかはわからないが、一緒の時間を持とうと思ってくれるその気持ちが、今は単純に嬉しかった。
「……はい」
 孝介のうなずきに、足立も嬉しそうに笑った。
 と、突然足立は孝介の腕を引いて横道に入り込んだ。堂島家へ向かう近道だと言う。
「ここまっすぐ行くとね、ちっちゃい内装屋さんトコに出るんだよ。わかる?」
 孝介はしばらく考えたあとで、ああ、と呟いた。大きな通りに沿って行くよりかは幾分か早く帰れそうだ。ただし道は民家の塀と農家の倉庫のようなものにはさまれ、あいだに一本外灯が立っているだけだから、ひどく暗い。
「たまぁに痴漢の話とか聞くから、夜はあんまりお勧め出来ないんだけどね」
 そう言って足立は道の半ばへと歩を進め、そうして立ち止まった。
「暗がりでカップルがいちゃいちゃしてたりもするし」
 つられて足を止めながら苦笑を洩らした時、足立の顔が近付いてくるのがわかった。唇が触れて、すぐに離れていく。
「こんな風にね」
「……あの」
「んー?」
 足立は暗がりでもわかるほど大きくにまにまと笑っている。孝介は塀を背に立ち、迷いながらも手を上げて、軽く足立の胸を押し遣った。
「もうここでいいですよ。っていうか、煙草買うんじゃなかったんですか」
「君と別れたら買いに行く。あと五分だけ一緒に居よ」
「……五分だけですからね」
「はーい」
 返事と共に額が軽くぶつけられた。痛みに顔をしかめていると、足立は傘を放り出してしまった。孝介の差す傘のなかに入り込んで、名残惜しそうに何度も唇を触れてくる。
「人が来ますよ……っ」
「来たらやめるから」
 上ずった声でささやいたあと、胸を押し遣る手を握って強く引き、また唇を重ねてきた。孝介は顔をそむけたが、強く首を押さえつけられて逃げることは叶わなかった。力の抜けた指で足立のTシャツにしがみついた。見られるかも知れないという恐怖と羞恥とが、爪先に伝わる頃には耐えきれないほどの快感に変わっていた。
 外でするキスは、ひどく熱い。
 唇が離れたあと、足立はじっとこちらの目をのぞき込んでくる。孝介は熱い息を吐き、困ってうつむいた。擦り寄せられた頬の感触と、首元から立ち上る足立の熱に、鼓動が速くなるのがわかった。首に置かれたままの手がなにを欲しているのか、痛いほどに理解出来る。
「……も、帰れないじゃないですか……っ」
「だって帰したくないんだもん」
「……っ」
 足立の唇が耳元に触れた。孝介は身を離そうとしたが、足立がそれを許さなかった。上手く力の入らない手を上げて再び足立の体を押し遣り、必死になって首を振った。駄目だ、と言葉に出して言うことは出来なかった。帰りたくないのは孝介だって同じだ。何故こんな日にアパートへ行ってしまったんだろう。
「……あ、あー、ね、ごめん」
 手から離れそうになる傘を受け取って足立は孝介の頭を抱え込んだ。
「ごめん。……ね、泣かないで」
「……泣いてないですよっ」
「あ、うん。ごめん」
 我に返ったような声で足立は繰り返し謝った。頭を撫でられながら孝介は気持ちを落ち着かせている。気を抜くと本当に泣いてしまいそうだった。
 ひとつ息を吐いたあと、孝介は足立の腕に手を置いた。足立はゆっくりと髪を梳いてくれている。雨はいくらか弱くなったようだが、それでも時折吹く風にあおられて剥き出しの腕に雨粒が当たった。
「明日は仕事ですか?」
「うん」
 顔を上げた孝介の頬に手を置いて足立はうなずいた。
「……朝が来るのって、面倒ですね」
 一日が過ぎるのの、なんと早いことか。同じ思いなのか、足立も苦笑している。
「また遊ぼ」
「はい」
「今度は友達ん家に泊まるって言ってきなよ。堂島さんが休みの時にでもさ」
 そう言って額をくっつけてきた。親指でゆっくりと下唇をなぞり、ね、と繰り返す。
「そしたら、ずっと一緒に居られるよ」
「……はい」
 腕に置いた手をずらして指に触れた。額を離した足立はきょろきょろと辺りを見回したあと、手を握って唇を重ねてきた。指を絡ませながら長いあいだキスをした。唇を離したあともやはり立ち去ることが出来なくて、しばらくのあいだ互いにもたれるようにしてその場に立ち尽くしていた。
 雨は降り続いている。
 気が付くと細い道の両端に霧が浮かび、その先を覆い隠してしまっていた。堂島の家へ至る道も、足立のアパートへ帰る道も、今は見えない。テレビのなかみたいだ、とぼんやり孝介は思った。足立と二人で放り込まれたらどんな世界が出来るんだろう。
 それはもしかしたら、こんな風に薄暗い夜道のような淋しい世界かも知れない。でも今はそれがいいな、と思った。薄暗いところで二人っきりで抱き合っていられたら、それだけで充分だ。
 孝介はわずかに顔を上げた。足立も気が付いてこちらに向いた。そっと唇を触れたあと、二人はまた額を合わせた。
 雨は降り続いている。今だったら霧にまぎれて、どこかへと消えてしまいたい。


帰っちゃヤダ/2011.01.05


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