「…………気持ち悪いよね」
 呟いて、唾を飲み込んだ。喋ろうと意識しなければ上手く言葉が出てこなかった。
「頭おかしいとしか思えないよ。だいたい、あれから何年経ったと思ってんの? もうさ、君もいい歳した大人なんだから、自分の都合で人のこと好きに引っ張り回すのやめたら? 子供じゃないんだからさあ」
 口元がひきつって、息を吐いた瞬間、それが上手い具合に嘲笑うような声となった。
「こっちの迷惑も考えなよ。せっかく自由の身になれたのに、また君の顔見て過ごすとか、それどんな拷問? ホント、話聞かされた時はたまったもんじゃなかったよ」
 暗がりのなかでテレビの画面にぶつけた指先。自分を拒む硬い音。
「どんだけ粘着質なのさ。あのさ、言ったことなかったっけ? 別に君のこととか、どうでもいいんだよ。からかってただけだよ。言ったよね? なのに一人で勝手に盛り上がってさ、十二年も経ってんのにまだ追いかけてきてさぁ」
「……」
「迷惑だよ。ホント、いい迷惑」
「…………はい」
 足立の記憶のなかで、自分の手を握った孝介が泣いている。慰めてやりたいと思いながら必死になってシーツを握り締め、駄目だと何度も自分に言い聞かせていたことを思い出した。あの温もりが恋しかった。だけど今、足立の手のなかにはシンクの冷たい感触しかない。
「もうさ、自分でもわかってるよね? 自分がどれだけ気持ち悪いことしてるのか。だって前科持ちのオッサン嬉々として引っ張り込んで同棲ごっことかさ、正直有り得ないでしょ。彼女と別れて淋しかったんだかなんだか知らないけど、付き合わされるこっちの身にもなってよ。あげくに誘惑まがいのことまでしてくれてさあ。なびくと思った? そんな簡単に落ちるとか思ってた?」
 いつの間にかシンクに爪を立てていて、それがガリと嫌な音を立てた。そんなつもりじゃ、とかなんとか孝介が言うのが聞こえたが、足立は遮って続けた。
「言うわけないでしょ、君みたいな子に冗談でも『好き』とかさ。……言えるわけないじゃない」
 言葉は大きなプラスチックの塊となって喉を通過する。ひと言喋るたびにえぐられていく。胸が押し潰されそうだ。今にも血を吐きそうだ。でももうやめるわけにはいかない。痛くてたまらないのに、そうしようと思っていないのに、言葉がどんどん出てきて止められない。
「君はね、菜々子ちゃんみたいに可愛い女の子と結婚してさっさと幸せになればいいんだよ。いつまでも過去に縛られてるとか、ホントバカみたいだよ? 後ろばっか向いてるなんてロクなもんじゃないよ。なんだよ、そんな勝手にかっこよくなっちゃってさ、仕事も楽しくやってるみたいなのにさ、なんでこんなオッサンのこといつまでも気にしてるわけ? 好きとか愛してるとか言ったらあきらめてくれるの?」
「……」
「だったら言ってあげるよ。先に断わっておくけどお義理だからね。好きだよ。大好きだよ。ずっとずっと好きだったよ。あんなことしておいて合わせる顔無いってずっと思ってて、でも会いたくてしょうがなくって、でも会えないから君のこと忘れるしかないくらい好きだったよ。……なんで今更のこのこ現れたんだって本気で憎くなったくらいに大好きだよ」
 ふつふつと怒りが湧き上がってくる。新年二日のあの夜、側に居てくれなかったクセに何を今更――そう考えたら、怒りで目の前が真っ白になった。
「……ほんっと、なんで今更出てきたんだよ!」
 我慢出来なくなってシンクを殴り付けた。孝介が息を呑むのがわかった。
「なんで忘れたままでいさせてくれなかったわけ!? 目の前に餌ちらつかせてからかうのがそんなに楽しい? 今更……君に、なんて言って謝ったら……っ」
 こらえきれずに涙が落ちていた。見られまいと顔をそむけ、乱暴に腕で拭った。足立さんと呼び掛ける声が聞こえたが、足立は無意識のうちに首を振っていた。そうして気持ちが落ち着くのを待ってから言葉を続けた。
「君のこと騙してたんだよ」
「……知ってます」
「ずっと騙してたんだよ。ずっと騙せると思ってたよ。ずっと騙したまま一緒に居ようって思ってたんだよ。君と一緒に居られるならどんな嘘もついたよ。どんなひどいことも平気でしたよ。でももう無理だろ? 僕がどんな人間なのか全部わかってんだろ? 今更、そんな――」
 ――なに言ってんだろ。
 次から次へと溢れる涙と、自分の口が勝手に喋る言葉のせいで、なんの為にこんなことを言い出したのか、もう思い出すことが出来なかった。わかるのは、とにかく終わりなんだということだ。自分も孝介も、いつかはこういう時が来るとわかっていた。いつかは迎えなきゃいけない時だと知っていた。
 知らなかったのは、自分が終わらせたくなかったということだけだ。
「……俺のこと嫌いですか」
 答えることが出来なかった。ぼろぼろと落ちる涙を見られないように、そっぽを向いていることしか出来なかった。
「返事してください」
 孝介の声は静かで、だがはっきりと意志を持っていた。どんな顔をしているのかはなんとなく想像がつく。どんなことがあろうとも、ただ真実を受け止めようと力のこもった瞳を向けているに違いない。あの赤黒い闇のなかで自分を追い詰めた時と同じように。全てを見て、決断する為に。
「…………好きだよ」
 追い詰められた自分には、もう逃げ場がない。
「勿論好きだよ」
 孝介が息を吐く音が聞こえた。
「出てくのなんてホントはやだよ。ずっと一緒に居たいよ。離れるのなんて絶対にやだよ……!」
 足音は聞こえなかった。不意に体が重くなった。背後から孝介の腕がしがみついてくる。預けられた重みに耐えられなくて、足立はしゃくり上げながらずるずるとへたり込んだ。
 ――なんでかなぁ。
 孝介の湿った呼吸を首筋に受けながら考えた。
 ――なんでいっつも、言っちゃいけないことばっかり言っちゃうのかなぁ。
 こんな筈じゃなかったのに。
 足立はしがみつく孝介の腕をゆっくりとはがし、互いにへたり込んだまま向き直った。孝介は目の端に涙を浮かべており、自分も治まり切らない涙がまた落ちた。
「足立さん」
 抱きついてこようとするのを足立はなんとか押しとどめた。孝介の両の手首を押さえつけて首を振った。
「でも、駄目だよ」
「……駄目って、何が?」
「僕と居たっていいことなんか一個もないんだよ。君の邪魔にしかならないんだから」
 孝介は最初、何を言われているのか全く理解出来ないようだった。だが足立が懇々と説明を繰り返すうちに、ようやく事態が呑み込めたようだ。
 ここを出ていくことは既に決定事項であるということが。
「……やだ」
 茫然とした顔で孝介は呟いた。
「だって……なんで? 出ていきたくないんでしょ? だったら――」
「駄目だよ」
 憎まれてもいい。恨まれてもいい。これ以上足を引っ張ることは出来ない。自分が辛いのは自業自得だ。でも彼の邪魔までするわけにはいかない。これまで充分足止めをしてしまった。もうとっくに解放されていい筈だ。
 しかし孝介は聞き入れてくれなかった。何を言っても「嫌だ」の一点張りで、まるで駄々っ子のように首を振るばかりだった。
「君の為を思って言ってるんだよ」
「嘘だ!」
 怒りに震える瞳がぎろりと睨み付けてくる。
「足立さんは単に自分が楽になりたいだけでしょ。俺のこと放り出したらもう責任取らなくていいって思ってんだろ!」
「違うよ」
「違わないよ! 俺の為って言っときながら俺のこと全然考えてない!」
「それは――」
 恨んでるんだろうな。きっと恨んでいるに違いない。いや、憎くてたまらない筈だ。だって。
 返事に詰まった自分を、孝介は同じように睨み続けている。こういう怒りの眼差しを向けられるのだとずっと思っていた。軽蔑の色しかない視線が飛んでくるのだと考えていた。そうされて当然の人間だから、いつかその時が来れば甘んじて受け入れるつもりだった。
 だけどそれでも孝介は足りないと言う。何が足りないのか、足立には本当にわからない。
「僕が何したのか忘れたわけじゃないだろ? 君のこと最初から裏切ってたんだよ?」
「……わかってるよ!」
 叫んだ瞬間、孝介の目から涙が落ちた。
「俺のこと利用してたんだろ? 俺らのこと陰で嗤ってたんだろ!? 全部知ってるよ! わかってるよ! ……わかってるけど、俺だってどうしようもないんだよ!」
 そう言って苛立たしげにこぶしで床を打ち付けた。なんとか抑えようと手首を握ったままの足立には、ぼろぼろとこぼれ落ちる孝介の涙を拭ってやることが出来ない。ぶつけられる怒りをただ受け止めるだけだ。
「俺だってあんたのことなんか忘れてたよ。裁判終わって死刑にならないってのがわかった時に、もうこれでいいんだって、もう終わったんだって自分納得させて、全然関係ないとこで普通に暮らそうって思ったよ。なのに」
 「なんにもない」が、いつも目の前にあった。
 誰と居ても、どれだけ楽しく過ごしても、ふと目をそらせた瞬間、その誰かが居なくなるんじゃないかといつも不安でたまらなかった。大事に思えば思うほど側に居るのが辛かった。失くしたくないと思い、執着し、病的だと自分でもわかっていながらどうしようもなかった。
 菜々子は生き返ってくれた。でも足立は戻らなかった。自ら追い詰め、剥奪し、納得した上でのことだと何度も言い聞かせたのに、それでもやっぱり自分が許せなかった。
 足立が居ない。どこにも居ない。
 自分から足立を奪ったのは自分自身だ。罪は自らにある。でも自分の行いが間違ったことだとも思えなかった。ああするしかなかった、選択肢はひとつだけだった。そうやって何度も考え、反復し、袋小路に入り込んではのたうちまわった。
 だから忘れた。
 あの一年間のうちで、記憶のなかから足立を消した。自分は犯人を追い詰め捕えたが、その「犯人」に名前は存在しなかった。自分とは関わりのない、見ず知らずの人間で、だからその人物がその後どうなろうとどうでもいいことだった。
 恋人が出来た時は、もう大丈夫だと思った。ぽっかりと開いた心の穴をこの人が埋めてくれるんだと期待した。でも違った。心のなかに入り込みながらも同時に空白は存在し続けた。いつかあの時と同じように突然目の前から居なくなるんだという恐怖がまとわりついて離れなかった。
 何がそんなに怖いの?
 そう訊かれるたびに答えようとした。大事な人が居なくなったんだと喉元まで出かかっているのに、本当にそんなことがあったのかと考えると、自分でもわからなくなった。その癖、大切だと思えば思うほど失う時が絶対に来るという確信があった。
 だってその証拠に、自分は失い続けている。
 「なんにもない」がずっとある。
 その穴は一生涯、どうやったって埋まる筈がない。そこに収まるべき人を自分は忘れてしまった。何故そんな空白があるのか理由すら思い出すことが出来ない。だから結局は駄目になった。好きになればなるほど手にしているのが怖くなり、結局は自分から全てを遠ざけることになった。
 大きな欠落感を抱えたままずっと一人で過ごすのだと、半ば受け入れかけていた。足立が戻ってくるという話を聞くまでは。「犯人」には名前があったのだということを思い出すまでは。
「……」
 孝介の話を聞きながら、足立は夢で眺めていた地面のことを思い返していた。既に失われ、陽に晒されるだけの空白。あの時抱えていたそれは、自分にとって幸せの名残りだった。それがあれば他には何もなくても生きていけるような、幸福の象徴だった。
 でも結局それはただの空白で、何も生み出しはしない。あの時男が言ったことは正しかったのだ。「見えないところで」孝介がどうなろうと「知ったこっちゃなかった」。自分には思い出が残った、幸福な記憶があった、だから孝介も幸せにやっているんだろうと勝手に思い込んでいた。
 一緒に暮らし、孝介が何を望んでいるのかもわかっていながら、見えないフリを続けていた。自分の想いですら誤魔化して、孝介の為だと言い訳をして、逃げ切れるつもりで居た。
 君が助けてくれたのに。
『ひとつだけお願いがあるんですけど』
 いつも逃げずに向かってきてくれてたのに。
「騙してても、嗤ってても、……も、どうでもいいよっ。俺、足立さんが居ないと駄目なのに、なんでどっか行っちゃったんだよ! なんで居てくれないんだよ!」
 この空白は、君でしか埋まらないのに。
「もう置いてかないで……!!」
 気が付くとしがみつかれていた。足立は孝介に抱きつかれたまま、しばらくのあいだ茫然としていた。孝介は子供のように泣きじゃくり、時折辛そうに身を震わせた。自分の為に誰かが泣いているのだということを理解するのに、かなりの時間が必要だった。足立は震える腕を上げて孝介の背中を抱き、髪を撫で、恐る恐る力を込めて孝介の体を抱き返した。
「……ごめん」
 孝介は泣き続けている。自分の為に涙を流している。
 今の今まで、消えれば済むのだと心のどこかで思っていた。その時になればまた怖くなるのだろうが、それでも自分が消えてしまえば、全て解決するのだと安易に考えていた。自分が消えても世界にはなんら関係がない。大勢あるうちのひとつが消えても、気にする人間なんて居る筈がない。そう思っていた。
 ――結局、
 孝介の為と言いながら、自分のことしか見ていなかったのだ。自分が楽になる方法しか考えていなかった。自分が負うべき辛さを誰かに肩代わりさせて、それでいいことにしようとしていた。選ばないことを選んで、また同じことを繰り返すところだった。
 いつも孝介に救われる。
 自分が繋がっている世界の存在を教えてくれるのは、いつも自分ではない誰かだ。
「ごめん」
 泣きじゃくる孝介の体を抱き締め、足立はそれだけを繰り返した。


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