もやしの根っこを取っている時、ふと思い出して足立は訊いた。
「そういえば君、今月誕生日じゃなかったっけ?」
 孝介は一瞬だけ驚いたように手を止め、しばし迷ったのちにこっちを見た。
「……よく覚えてましたね」
「いや、確か誕生日近かったよなーって思ってさ。何日だっけ」
「十九日です」
「何歳になるの?」
「……」
「ねね、何歳になるのー?」
「…………」
「あ、二十九歳だっけ。そっかぁ、君もいい歳になるよねぇ。来年は三十路かぁ。立派な中年の仲間入りだねぇ」
「…………この親父、マジでムカつく」
 台詞と共にガシガシ蹴られたので足立は笑って逃げた。孝介は居間のテーブルでもやしの根っこ取りを続けながら、こっちをぎろりと睨み付けている。
「そういう足立さんだって、来月は四十じゃないですか。四十ですよ、四十。中年どころの騒ぎじゃないですよ」
「僕は見た目が若いからいいの」
「どこがですか。立派なオッサンですよ。むしろ若いのは頭のなかじゃないんですか」
「ひどっ」
 根を取り終えたもやしをボウルに放り込んで、孝介は勝ち誇ったように笑った。テーブルに戻った足立は冷蔵庫の脇に掛けてあるカレンダーを眺めた。十九日は今週の金曜日だ。
「その日は仕事忙しいの?」
「どうだったかな……多分そんなに遅くはならないと思うけど」
「じゃあ誕生日パーティーやろうよ」
「えー? いいですよ、そんなの。祝ってもらうような歳でもないし」
「いいじゃない。やろうよ」
 しぶとく食い下がったが、孝介はなかなか首を縦に振らなかった。
「パーティーって、何やるつもりなんですか」
「んー。とりあえず御馳走作って――」
「足立さんが作るの? じゃあ鍋。水炊き」
「……なんで即答なの」
「だって失敗しないし」
 他にも作れるよ! と主張してみたが、残念ながら受け入れられなかった。袋に残っているもやしを示して、いいからさっさと終わらせてしまえと命令が下される。ひげ根を取って茹でたあと冷凍しておくのだ。こうすれば二週間くらいは持つし、炒め物でもなんでもすぐに使える。同僚に教えられたのだと孝介が言っていた。
 トラブルの方はなんとか片付いたらしく、年が明けてからは孝介も休みの日に呼び出されるようなことはなくなっていた。相変わらず互いに予定のない日曜日には、いつも通り緩やかな時間が流れている。
 独り暮らしをしようと思っていると告げたのは、孝介が実家から帰ってきた翌日のことだった。初仕事で、会社で軽く呑んできたと言う彼に、世間話のように振ってみた。いくらか予想はしていたらしく、孝介は外套を脱ぎながら「そうですか」と軽く笑ってみせた。
『どの辺りにするつもりなんですか?』
『仕事のこともあるし、向こうでいい部屋があったらとは思うんだけど……』
『でもあの辺だと少し不便そうですよね』
『そうなんだよねぇ。それもあって悩んでるんだ』
 駅に置いてあった無料の冊子を開きながら言うと、孝介が脇から覗き込んできた。そうして、俺も会社の近くに引っ越そうかなと、ぽつりと言った。もしそうなれば、今度は全ての痕跡が消えることになる。自分だけでなく孝介のものも。
 でもその方がいいような気がした。自分たちはあの時、事件に対してのケジメしか付けていない。もし可能ならば同時期にここを出て、ちゃんと終わったのだという認識を持つべきなのだ。
「じゃあいいよ。鍋ね、わかった。あとは?」
「鍋だけで充分ですよ」
「なに言ってんの。誕生日なんだからケーキは必須でしょ」
「まさかケーキまで作るとか言いませんよね?」
「まっさかぁ。さすがにそれは買ってくるよ。ちゃんとロウソクも歳の分だけ貰ってくるから安心して。何本だっけ。三十本?」
「…………ホンットにムカつくわ、この親父」
 年が明けて、生活はいつも通りだ。おめでたい気分などすぐに消えてしまった。
 孝介に告げたということで足立は遠慮なく不動産屋の話をするようになった。この辺りの家賃の相場も知りたかったし、あまり途中下車をしたことのない、職場までのあいだの土地のこととかも詳しく教えてもらった。事態がどっちに向かっているのかは自分でもわからなかったが、少なくとも現状を変える為にあれこれ考えるのは楽しかった。
 孝介の誕生日には定時で上がらせてくれと、前もって畑中にお願いをしておいた。ガラスの修理は時も場所も選ばないので、そろそろ終わろうという時に緊急の依頼が入ることも珍しくなかった。
「なんか大事な用か?」
「まあ……ちょっと」
 幸い大きな現場の入っていない時だったので、多分大丈夫だろうと返事が貰えた。考えてみれば孝介の誕生日をきちんと祝ってやるのは、これが初めてなのだ。大したことは出来そうにないが、それでも喜んでもらいたかった。
 プレゼントどうしようと考えたのは、沖奈市の駅に着いて階段を下りている時だった。ライトアップされたアーケードをスーパーの方向へ向かいながら、何がいいのかなぁとショウウィンドウを眺めた。
 自分が身なりに構わない人間なので、洋服はパスだなぁなどと思いつつも、男物があれば足を止めてしまう。ちょうどディスプレイされている上着に目を惹かれた。今着るには少し早いように見えるが、春先の暖かい時期には合いそうだ。カーキ色で細身のミリタリー風ジャケット。でも余計な装飾は付いていなくて、シンプルなところがいい。
 考えた末に店舗へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
 入口の側でセーターを畳んでいる男性店員が声を掛けてきた。足立は会釈を返し、店内を見回しつつ窓の側のマネキンへと歩いていった。年齢的には二十代半ばをターゲットにしているのだろうか。店舗内の落ち着いた雰囲気に安心させられる。
「何かお探しですか?」
 生地を確かめていると、さっきの店員がやって来て声を掛けられた。足立は驚きながらも「ええ、まぁ……」と答えてみせた。
「……これ、かっこいいですね」
「最近の売れ筋ですね。シンプルだからなんにでも合わせやすいですし。――ジャケットをお探しで?」
「弟の誕生日なんです」
 恥ずかしいながらもそう言った。
「なんにしようか迷ってて……二十代の男の子って、こういうの好きかな?」
「一枚あると重宝すると思いますよ。さっきも言いましたけど、シンプルですからなんにでも合わせられますしね」
「……じゃあ、これください」
「かしこまりました」
 サイズを訊かれて困ったが、自分が着て大丈夫なら平気だろうと試着させてもらった。自分用にも欲しいなと思いつつ財布を開いて驚いた。支払いを済ませると小銭しか残らない。あとで銀行へ寄らなければ。
「包装はいかがなさいますか」
 箱に入れることも出来るというのでそうしてもらった。それを更に大きな手提げ袋に入れてもらい、足立は店をあとにした。まずは銀行のATMで金を下ろして、スーパーで買い物。今日は遅くなるという話だったから、ばれないよう押入れの奥に仕舞っておこう。喜んでくれるかな。気に入ってもらえるといいな。自分の為に買ったわけじゃないのに、何故か嬉しくてたまらなかった。


 グラスを合わせる二人の前で、鍋がぐつぐつ煮えている。立ち上る湯気を眺めつつビールを飲んだ孝介は、満足そうに息を吐いた。
「なんか、瓶ビールって味が濃い気がする」
「ねー。おんなじビールなのに、こっちの方が美味しいよね」
 足立もグラスを置いてうなずいた。買い物へ行った時、どうせだからと二本だけ買ってきたのだ。二人ともさほど飲める方ではないから雰囲気を楽しむ為だったが、こういうちょっとしたことでも特別な空気を醸し出してくれるのが不思議だった。
 孝介はさっそく鍋に手を伸ばしている。他は惣菜を買って皿に移し替えた物が殆どだが、帰ってきた孝介はテーブルを見て「食い切れるかな」と嬉しそうだった。二人きりの誕生日パーティーだ。
「この前、不動産屋さん行って話聞いてきたんだけどさ、部屋探すんなら春先に済ませた方がいいって言われた」
「ああ、移動の時期ですからね。早めの方がいい部屋も空いてるだろうし」
「そうそう。おんなじこと言われたよ」
 足立は白菜に息を吹きかけ、「でもなぁ」と唸ってしまった。
「三月じゃまだお金貯まってないだろうし」
「――よろしければ『月森金融』がお手伝いいたします。限度額は三十万、利息はトイチで」
「トイチ!? 誰が借りるかっ」
 肘で殴る真似をすると、「冗談ですよ」と孝介はおかしそうに笑った。今では引っ越しの話題は二人のあいだで当然のものとなっている。
「どういう部屋にしようとか、希望はあるんですか?」
「そうだなぁ……やっぱり台所が使いやすいのがいいかな」
「自炊の素晴らしさにやっと目覚めましたね」
「うん。そこは感謝してる」
 元来面倒臭がりの自分だが、馴れてしまえば案外簡単だった。昔と違って家へ帰れないということもなく、時間も充分ある。ただ、今は孝介が居るからやろうという気になれるが、将来的にはいささか不安が残るのも事実だった。ともかく物を無闇に増やすことだけはしないでおこうときつく自分に言い聞かせた。
「君は、引っ越しはどうするの?」
「……どうしようかな。まだ迷ってるんですよね」
 今だって不満があるわけではない。会社へは比較的近い場所に住んでいるし、堂島家へ行くにも便利だ。そう言って孝介はグラスに残ったビールを飲み干した。
「でも、二部屋はやっぱり多いかな」
「……」
 足立は何も答えないままビールを注いだ。
 いつもと違ってゆっくりの夕飯だった。飲みながらのせいもあるだろう。ケーキもちゃんと買ってあったが、あとでいいと孝介は首を振った。足立も同感だ。料理を片付けるだけで大変だった。今はこれ以上入りそうにない。
 食後のお茶を飲んでまったりしている時、そろそろいいかなと、足立は自室からプレゼントの箱を持ってきて渡した。御丁寧にリボンまで掛けられたそれを見て、孝介は驚きに目を見張った。
「どうしたんですか、これ」
「プレゼント。似合うかなーと思ってさ」
 早く開けてみてよとせっつくと、何故か孝介は渋々といった顔でリボンを解き、箱を開けた。そうして出てきたジャケットを見て「お?」と少し嬉しそうに笑い、箱から取り出して広げてみせたあとで更に満面の笑顔を作った。
「すごい、かっこいいですね」
「気に入った?」
「こういうの大好きなんですよ。ありがとうございます」
 好みから外れていなかったことにまず安堵した。
「着てみてもいい?」
「勿論。サイズ合うかな? 大丈夫かな?」
 孝介は上に来ていたトレーナーを脱いでTシャツ一枚になり、ジャケットを羽織ると腕をあちこちに動かして「大丈夫です」とうなずいた。
「結構あったかいや」
「よかったー」
 そのまま玄関ホールに置いてある姿見の前へ行き、鏡に映った自分の姿をとっくりと眺めている。ここからだと見えるのは横顔だけだが、心底喜んでくれているようだ。
 足立がお茶を飲んでいると、
「すごい嬉しいです。ありがとうございます」
 重ねてお礼を言われてしまった。実際着ているところを見ると、想像以上に似合っていた。孝介はこっちの視線に気付くと両手をゆるく広げ、「似合う?」と訊いた。
「似合う、似合う。すごくかっこいいよ」
「ホント?」
「うん。かっこよ過ぎて惚れ直しそう」
「惚れ直してくれていいですよ」
 言葉の最後は声が震えていた。お互いの顔から自然と笑顔が消え、そのことに気付いた足立はあらためて笑おうとしたが果たせなかった。孝介が上げていた手をゆっくりと下ろし、その合間に、逃げるように立ち上がって背を向けた。
「……えと、イチゴ食べる? 安かったから買ってきたんだ」
 返事も聞かないうちに冷蔵庫を開け、パックを取り出して洗い始めた。沈黙が恐ろしくてたまらず、何を喋ろうかと考える前に言葉が口から飛び出していた。
「あ、全部じゃ多いかな。君、どれくらい食べる? まぁ残ってもまた明日食べればいいんだし、いいよね、……あの」
「……」
「……あ、ケーキもあるんだった。どっちにしようか。ケーキ食べちゃう方がいいかな。あ、でも君、まだいいって言ってたっけ。ね。うん」
「……もういいよ」
 苦笑交じりの声だった。
「もうわかってるから、いいですよ」
 どんな顔をしているんだろう。知りたい気持ちはあったけど、知るのが怖くて振り返ることが出来なかった。
「俺だって自分の執念深さに驚いてるんだ。いい加減、自分でもどうにかしたいんです」
「……」
 足立はイチゴの入ったパックを流しに置いた。水を止め、濡れたままの手でシンクの縁にしがみつく。
「助けてもらえませんか」
「……」
「とどめ刺してください」
 そうして、お願いしますとまで言われてしまった。
 足立は混乱した頭で考えた。今が絶好の時だ。これが最後だ。こうなることをお互いが望んでいた。いつかは来てしまう時が今になっただけだ。
 終わらせてやれ。遺恨無く。


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