長い時間が経つあいだに、ようやく泣き声が静かになっていった。孝介はしゃくり上げながらのろのろと身を起こし、泣き腫らした目で足立をみつめ、そうして顔をそむけながらまた泣いた。それを乱暴に拭うと不意に立ち上がった。どこへ行くのかと見守っていたら、孝介は自室からフェイスタオルを持ってきて足立の肩の辺りに押し付けた。涙で濡れてしまったのを気にしてくれているようだ。
 自身はそのあいだにもう一枚のタオルで顔を拭いている。だが真っ赤になった目が、翌日の惨状を予感させた。休みで良かったねとぼんやり思っていると、孝介が不意に「ごめんなさい」と呟いた。
 子供のような頼りない声に、足立は首を振ることしか出来なかった。
「……ホントに出てくの?」
 まだ涙は治まり切らないようで、わずかにしゃくり上げながら孝介が訊いた。タオルを押し付ける孝介の手に自分の手を重ねて、足立は返事を考えた。
「君と一緒に居たい。君が許してくれなくてもいいから一緒に居たい」
「……許すとか、許さないとか、そんなのどうでもいいよ……!」
「うん」
 タオルを押し付ける手を下ろさせ、もう一方の手もどかせ、両手で孝介の顔を包み込んだ。まばたきをした時にまた涙が落ちるのを親指でなぞり、ゆっくりと額を合わせて「ごめん」と呟いた。
「なんか、情けないね」
「……なにが?」
「僕の方が年上なのに、いっつも君に守られてばっかりだ」
 孝介はしばらく考え込んでいたが、そろそろと目を上げてこっちを見ると、むくれたような顔で呟いた。
「足立さんが情けないのは昔っからですよ」
「うわ、ひどっ」
 足立が睨み付けると、孝介も同じように睨み返してきた。そうしてしばらく睨み合っていたが、やがて我慢出来なくなって足立が吹き出し、孝介も同じように笑い出した。
 孝介の手が上がって、両の手を捕えられた。握り合って床に置いたまま、二人は互いにみつめ合う。
「……足立さん」
「うん?」
 しばらく無言だった孝介は、何故か突然意地悪そうな顔付きになった。
「…………老けたなぁ」
「ちょ、そんなしみじみ言わなくたっていいでしょ!?」
 孝介はゲラゲラとおかしそうに笑っている。足立は孝介の手を引いて顔を近付けさせると、粗を探そうとあちこちを眺め回した。
「そういう君だって――」
「なに?」
「…………君は、なんか、かっこよくなったよね。……ずるいなぁ」
「ずるいってなんですか」
 そう言ってまたおかしそうに笑った。
「口惜しかったら渋い親父にでもなってください」
「う……ど、努力はする。けど、……え? そういうのが、こ、好み、とか?」
 孝介は呆れたように苦笑を洩らし、何かを言いかけて、やめた。
「違いますよ」
 握った手を引っ張られる。
「……俺は足立さんが好きなんです」
 唇をふさがれたせいで返事は出来なかった。


 窓の外では雪が降り続いている。
 足立は改札口の正面にある大きな窓の前に立ち、足下を前後に伸びる線路をじっとみつめていた。下り電車が到着するたびに改札口へと目を向けるが、まだ孝介はやって来ない。まぁ時間が早かったからなと、新品のダウンジャケットの下で身をすくめ、また窓の外へと目を向けた。
 今日から暦が変わり、二月になった。同時に足立の三十代が終わった。パーティーというほど派手ではないが、外で飯でも食おうと、仕事帰りに待ち合わせをしているのだ。
 あれから二人のあいだは少し変わった。最初の変化は孝介の不安だろうか。
 週明けの月曜日、先に帰っていた足立が飯を作っていると、玄関の扉が開いた。いつもはすぐにただいまという声が聞こえるのに、その日はなんの声もなく、ただ足音だけがものすごい勢いで台所に向かってくる。
 驚いて振り返ると、ホールに通じる戸口のところに孝介が立ち、なにやら恐ろしい顔でこっちを見ていた。
『お帰り。……どしたの』
 声を掛けても返事はなかった。孝介は荷物を床に置くと、無言で近寄ってきていきなり抱きついてきた。包丁持ってるんだから危ないよと言っても聞きやしない。
『どしたの。なんかあった?』
『……居なくなってたらどうしようって思って……』
 あまりの台詞に、返す言葉がすぐには思い付かなかった。考え過ぎだよと笑い飛ばそうとして、あわててやめた。
 その前の二日間、孝介はずっとそわそわして落ち着かなかった。どこへも行かせないという意思表明のように常にピッタリとくっついて、トイレの為に離れるのでさえ嫌がった。足立はことあるごとに大丈夫だよと言い聞かせなければならなかった。
 レンタルビデオ店で映画を選んでいる時も、孝介はタイトルなどひとつも見ていなかった。足立が気を利かせて、こっちとこっち、どっちがいい? などと話を振らなければ、ただ足立の後ろに付いて歩くだけだったろう。まるで刑務所から出てきたばかりの自分みたいだと呆れたが、逆に考えるとそれだけ孝介の抱える空白が大きいということだ。
 足立は人生で初めて根気の良さを発揮し、毎日毎日、大丈夫だよ、どこにも行かないよと繰り返した。顔に触れ、髪を撫で、抱き締めた。十二年掛けて大きくなった空洞はなかなか埋まらないだろうが、こればっかりは気長に行くしかない。
 今まで歳を取ることになんの意義も見出せなかったが、今となっては自分がオッサンで良かったと本気で思う。十二年前の自分だったら即行で放り出していた。自分に責があると言われても、そんなの知らないよ、で終わりにしていただろう。昔は理解出来なかったことが今は少しだけだがわかるようになった。歳を取るというのも、案外悪くない。
 お陰で近頃は落ち着いてきたようだ。以前の生意気な台詞が復活しつつある。
 逆にオッサンで困ったというのは、当然ながら夜のことだった。なにせ十二年振りである。一緒にベッドへ入るだけでも緊張し、抱き締めてはまた緊張し、意識しちゃいけないと思えば思うほど緊張する。勃つ物も勃たず、ヤバいと焦る、焦れば萎える、更に焦る、の悪循環だった。
 こっちに関しては、孝介が気楽に構えていてくれるお陰でなんとかなりつつあった。十二年の空白は孝介だけのものではない。それを認めた時、自然と力が抜けた。今は裸で抱き合うのが純粋に気持ちいいと感じている。こっちも気長にやるつもりだった。
 足立はポケットに仕舞っておいた携帯電話を取り出して着信を確かめた。特に電話もメールも入っていない。丸時計を眺め、時刻表を確認し、多分次の電車かなと当たりを付けてまた窓の外へと視線を投げた。
 暗がりのなかを大きな牡丹雪が舞っている。今日の雪は積もりそうだ。
 ふと目を上げた時、遠くの方から段々と近付いてくる小さなライトをみつけた。下りの電車がやって来たらしい。足立は改札口へと向き直った。窓に寄り掛かり、階段を上がってくる人の波から目的の人物を捜し出そうとする。
 しかしそんな必要はなかった。捜そうとしなくても、すぐにみつけてしまう。頭上に印が付いているわけじゃないのに、どういうわけか孝介の姿は目立った。遠くに離れていても雰囲気で目が惹き付けられる。向こうも足立の姿に気付いたようで、財布を握った手を上げてこっちに笑いかけてきた。
「お帰り」
「ただいま」
 向かい合って立った二人はそれだけを言うと、少しのあいだみつめ合い、また恥ずかしくなって目をそらせた。
「何食いに行きます?」
 誤魔化すように窓の外へと視線を投げながら孝介が訊いた。
「それが、特にこれ、っていうのがないんだよね」
 せっかく孝介が奢ってくれるというのに申し訳ないが、結局今の今までメニューが決められなかった。孝介はしばらく考え込んだあと、
「じゃあお好み焼きとかどうですか?」
「お好み焼き? いいね、食べたい」
「じゃあ、こっち」
 狭いけど美味い店があるのだと言う。孝介は歩き出しながらこっちに向いて、足立が着るダウンジャケットを眺めた。
「着心地どうですか?」
「うん、すっごいあったかいよ」
「よかった」
 このあいだの日曜日、店まで一緒に連れて行かれて買ってもらったのだ。少し早いけど誕生日プレゼント、ということだった。これからはこんな風にして毎年お祝いが出来るのだと思うと、感無量だった。
 今二人は、少しずつだが未来のことを夢想している。孝介は猫を飼いたいと言い、足立はもう少しリビングの広い部屋に移りたいと言った。どうせだから安いマンションでも買ってしまおうかと孝介は考えているようだ。
 将来二人がどうなるのかは、当然わからない。もしかしたらひどい喧嘩でもして、今度こそ本当に駄目になるのかも知れない。
 だけど足立は、少なくとも逃げずにいようと決めている。起こる全てのことをきちんと見届けて、自分の力で答えを出そうと決めていた。
 そしてもし出来ることなら、孝介が何か困った時、力になれればいいなと思う。いつも彼がそうしてくれたように。まるで当然のように手を差し伸べてくれたみたいに。
「そういえば足立さん、傘は?」
 手に何も持っていない足立に気付いて孝介が訊いた。足立はわざと両手をぶらぶらさせて答えた。
「面倒だからフードかぶって来ちゃった」
「ま、雪ですからねぇ」
「っていうか、君と相合傘しようと思ってさ」
 孝介は驚愕の表情で足を止めた。先に階段を降り切った足立も同じく足を止めて振り返り、「どしたの?」と訊いた。
「…………俺、先行ってますから」
「ちょ、待ってよ! お店知らないんだから一人で行けるわけないでしょ!?」
 早足で行き過ぎようとする孝介の外套を掴み、足立はあわててあとを追った。
「傘ぐらいでそんな固いこと言わないでよ」
「やかましいわ、色惚けじじいっ」
 足立は笑い、孝介は照れたようにそっぽを向いている。アーケードが途切れるところで孝介は立ち止まって傘を開いた。足立が見ていると、むくれた顔でこっちを向いて、だが無言で隣にやって来るのを待っている。
 足立は傘の下に入り、同時に歩き出した。二人の足跡が同じ歩幅で雪を踏みしめていく。やがて雪は溶けるだろうが、並んで進む二つの足跡は、きっとどこまでも続いていく。


なんでかなぁ・さいご/2012.03.26


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