車を作業場前の空き地に乗り入れて足立はエンジンを切った。助手席に座っていた畑中がドアを開け、「明日納品のヤツ組み立てちまおう」と言い先に車を降りていく。足立は足元のゴミ袋を拾い上げて車を降り、作業場の隅に置かれた大きなビニール袋のなかへとゴミを放り投げた。
まだ三時を過ぎたばかりだというのに、辺りにはもう日暮れの気配が漂っている。この時期は手元が見えにくくなる為に、作業場での仕事が多くなるのだと畑中が教えてくれた。
「あぁ、お帰りなさい」
畑中と二人でガラスを台の上に置いていると、戸口から香代子が顔を出して足立を呼んだ。孝介から電話があったという。
「え……」
「自宅に居るから電話が欲しいって。一応番号聞いておいたけど」
そう言って香代子が差し出すメモを受け取りながら、足立は作業着のポケットを探った。そういえば今日は携帯電話を忘れている。わざわざ会社に電話を掛けてくるなんて、一体何があったのだろうか。
「電話してこい」
畑中が窓枠を壁に立て掛けながら言った。動揺が顔に表れていたらしく、香代子も「そこの電話使っていいから」と心配そうに言って店舗の方を指差した。すいませんと言って足立は頭を下げ、あわてて店に入った。
孝介が出るのを待つあいだ、一体どんな悪いことが起こったのだろうとそればかりを考えた。まさか堂島か菜々子に何かあったのだろうか。事故とか、それとも……もっと悪いこと? 本人から電話があったのなら孝介自身は大丈夫なのだろうが、それでも東京の両親がどうかしたとか、あるいはやっぱり本人に何か――
『はい』
「あ、もしもし、僕だけど」
『ああ』
予想は外れて、孝介の口調はひどく気楽そうなものだった。
『すいません、なんかわざわざ』
「いいよ。それより、どうしたの? なんかあった?」
そもそも平日のこんな時間に孝介が家に居ること自体おかしいじゃないか。足立はイライラと言葉を待った。
『いや、昨日言いそびれちゃったんですけど、俺今日午後休みなんですよ。免許の更新行ってきてあと用事ないから、どうせなら外で飯でもどうかなーって』
遠くで響くベルの音に足立は顔を上げた。店の前を、自転車に乗った老人がゆっくりと走り過ぎていく。
「…………そんだけ?」
『はい。電話したんですけど、足立さん、携帯忘れ――』
足から力が抜けて、イスにどっかりと座り込んでしまった。吐き出した安堵のため息を隠すことも出来なかった。
『足立さん?』
「……も、急に電話なんかあるから何かと思った。あーもう、ビックリしたあぁ」
『あ、えっと』
一瞬の沈黙のあと、孝介のすみませんと謝る声が聞こえた。足立はあわてて首を振り、「いいよ、いいよ」と笑いながら言った。
「何もなかったんならそれでいいんだ。――えっとね、多分六時過ぎにはそっち着けると思う」
『じゃあ駅まで行きますんで。改札で待ち合わせましょうか』
「うん。仕事終わったら電話するから」
そうして電話を切り、足立は改めて息を吐いた。
終わってみると、あれだけ動揺してしまった自分がひどくバカに思えた。だがその動揺は、自分が繋がっている世界を示す確かな証拠だった。
「無くしたくないもの」が、今の自分にはある。
「なんだった?」
作業場に戻ると、畑中が手を止めて訊いた。側に立つ香代子も相変わらず心配そうな表情だ。足立は笑って首を振った。
「なんでもなかったです。一緒に住んでる子が、外でご飯食べようって」
「なんだ、デートか」
畑中はわざとらしく鼻を鳴らしてカッターを持ち直した。隣で香代子も笑っている。
「ち、違いますよ。堂島さんの甥っ子が借りてる部屋に間借りしてるんです」
「あら、そうなの? 一緒に住んでるって言うから、てっきり」
「なあ」
二人は顔を見合わせてうなずいている。足立は困って頭を掻いた。
「よし。今日は十時まで残業していけ」
「えー!? なんですか、それ。今日は早めに上がるって――」
「予定変更。お前だけ残業決定」
「ちょ、勘弁してくださいよぉ」
足立の情けない声に、香代子が楽しそうな笑い声を上げた。
孝介の仕事は日付によって忙しかったり暇だったりするようだ。基本的に月初は暇らしく、会社からの強制もあり有給を取っていることが多い。だが今月はシステムトラブルがあったとかで、ここ三日ほど午前様が続いていた。
「やっと更新に行けましたよ」
本来なら昨日から休みの予定だったのがなくなってしまったと、焼き肉を食いながら話してくれた。
「よくわかんないけど、大変だったんだね」
「いやあ、これが乗り切れなかったらうちの会社終わってたかも」
「そんなに大事だったの?」
「お偉いさんがすごいカンカンで……」
トラブルの影響で、来週は土日が潰れそうだと孝介はうんざり顔だ。足立は肩をすくめるしかない。
「ま、その分今週はのんびりしますよ」
そう言って孝介はジョッキのビールを飲み干した。さっそく追加を頼んでいる。まだ時間が早いせいか店は空いていた。足立も付き合っているが、二杯も飲めば充分だ。
忙しかった反動なのだろうか、孝介はやたらとピッチが速い。大丈夫かなぁ、などと思いながら見ていたが、案の定飲み過ぎやがった。
「ホラ、着いたよ」
「はぁーい」
だらしなく言って孝介は勢いよく腕を振り上げた。それが壁に当たって「いでっ」と声を上げ、スニーカーを脱ごうとして姿勢を崩し、壁に頭をぶつけてまた悲鳴を上げている。足立は呆れつつも靴を脱いで先に部屋へ上がり、居間の明かりを付けた。そのまま背後を振り返り、足元になにかつまずく物はないかと確かめる。
酒に酔った孝介は何がおかしいのかニヤニヤ宙をみつめて笑っている。そうしてホールと居間の境目辺りで立ち止まると、いきなり上着を脱いでソファーに放り投げた。
「トイレ」
「いってらっしゃい」
再びホールに戻っていく孝介の後ろ姿を見送って足立は自室の扉を開けた。明かりを付け、上着を脱いでハンガーに掛け、作業着から部屋着に着替えてしまう。
気配に振り返ると、孝介が流し台の前にぼんやりと突っ立っていた。
「上着」
ソファーに放った自分の上着を指差し、酔っ払い特有の頑迷な声でそう告げる。
「うん」
「持ってきて」
そうして自分はふらふらと部屋へ向かった。足立は苦笑すると上着を拾い上げてあとに従った。
部屋に入った孝介はいきなり着ていた物を脱ぎ始めた。足立はタンスを開けて上着を仕舞った。振り返ると孝介はスウェットを着込んでベッドにもぐり込むところだった。
「気持ち悪いとか、ない? 大丈夫?」
部屋の明かりを付け、顔を見下ろしながらそう訊いた。孝介は相変わらずニヤニヤ笑うばかりで要領を得ない。この子、酔っ払うとこうなるんだ、などと思いながら返事を待っていると、
「足立さん」
不意に名前を呼ばれた。
「なに?」
だが訊き返しても孝介は何も言わなかった。布団の隙間から手を伸ばしてくるだけだ。足立は仕方なく側に寄ってしゃがみ込んだ。孝介は伸ばした手で足立のトレーナーを掴み、無言でぐいと引っ張った。
「なぁに」
「………………水飲みたい」
「早く言いなよっ」
足立は流しでグラスに水を入れて孝介の処へ戻った。ベッドの上で起き上がった孝介はグラスを受け取り、何回かに分けてゆっくりと水を飲んだ。
「……なんか」
思わず苦笑が洩れた。笑い声に気付いて孝介が振り返った。
「君とこうやってお酒飲みに行くようになるとか、想像もしてなかったな」
「……」
孝介は口元だけで笑ってグラスを付き返し、再びベッドへ横になった。
「足立さん」
布団の隙間から手を伸ばし、トレーナーを掴む。そのままブラブラと左右に振られるあいだ、なんとはなしに孝介の顔をみつめていた。
「なに?」
「……前、俺が叔父さん家に居た時に、何回か泊まりに来ましたよね」
「あぁ、うん。行ったね」
「居間に布団敷いて」
「うん」
「楽しかったよね」
「うん」
楽しかった。よく覚えている。堂島や菜々子が居た時もあったし、居ない時もあった。孝介が晩飯を作ってくれて、恥ずかしながら新婚のようだと浮かれたこともあった。
布団のなかで孝介を抱きしめ、おやすみと言ったあとも、しばらく眠れなかったことを覚えている。当たり前のように腕のなかにある幸福も、目を閉じてしまえば見えなくなる。一分でも一秒でも長く一緒の時間を確かめていたいと、あの時は真剣に思っていた。
唯一未来を思い描けていた頃のことだ。
「ねえ」
左右に腕を振る手が止まった。目覚まし時計の秒針の音が聞こえ、我に返って孝介の目を見た瞬間、部屋の空気がひどく緊張したものに変わっていることに気が付いた。何故部屋に入ってしまったんだろうと後悔したが、遅かった。
「……今があの時の延長じゃ駄目なんですか?」
懇願するような声だった。
「……」
「何があの時と違うんですか?」
見下ろす格好の孝介には、高校生の頃の面影がある。
足立は咄嗟に返事が出来なかった。言葉を探しあぐね、目をそらせようとしても、まるで酔ってなどいないかのような孝介の真剣な眼差しに捕えられ、少しも身動きが出来なくなる。
何があの時と違うのか?
「…………その……」
トレーナーを掴む孝介の手に力が加わった。答えを欲していながら知るのが怖いと顔に書いてあった。この為にわざと酔っ払ったんだろうかと一瞬考えたが、真実はわからない。
足立は言葉を探した。納得してもらえる言い訳がどこかにないかと、酔いの吹っ飛んだ頭でぐるぐる考えた。
返事がないのを見てあきらめたのか、孝介はトレーナーを掴む手からゆっくりと力を抜いた。そうして落ちそうになる手を、足立は思わず掴んでいた。そのまま布団に戻すことも、引き寄せることも出来ずにいる。中途半端な位置で止まった手が、まるで今の自分たちみたいだ。
「……俺、変わりました?」
手を握り返して孝介が訊く。足立は首を振った。確かにあれから時間が流れた分、孝介の状況は変わっている。学生だった彼が今や立派な社会人だ。助手席に座るしかなかった彼が自分の車を持ち、足立をどこかへと連れて行ってくれる。共に酒を飲み、仕事の楽しさや苦労を色々と話してくれる。あの頃には出来なかったことだ。
でも世話焼きなところは変わっていない。案外甘えん坊なところも相変わらずだ。生意気な言葉も、ふてぶてしい表情もあの頃のまま、いやあの頃以上に魅力的に見える。男振りが上がり、時々横顔に見蕩れてしまうことさえあった。
何があの時と違うのか?
――そんなの、
こっちが訊きたい。このまま腕を引けば呆気なく孝介は戻ってくる、その時の様子がまるで映像みたいに脳裏で瞬いた。現実にそうなっていない今の方が幻に思えるほど重みのある光景だった。それがただの妄想でないことはお互いが知っていた。過去に何度も抱きしめた体、肌を擦り合わせて感じた熱が、今自分の手のなかにある。
「足立さん――」
抗うのを無理矢理遮って腕を布団のなかに押し込んだ。そうして立ち上がり、相変わらず言葉がみつけ出せないまま孝介の顔を見下ろした。
「――ごめん」
それが、唯一絞り出せた言葉だった。
孝介は半身を起こし、何かを言うように口を開きかけた。だが足立と同じように言葉は出なかった。不意に目を落とすと、のろのろと首を振り、
「……なんか、俺一人だけバカみたいですね……」
そうして力を失ったようにベッドへ横になり、こっちに背を向けて布団をかぶってしまった。
足立はまだ答えを探していた。孝介の為ではなく、自分の為に。しかし最後までそれはみつからなかった。
「電気、消すね」
電燈の紐を引っ張ってオレンジ色の光を灯す。グラスを持って戸口まで行き、扉に手を掛けて振り返った。
「……おやすみ」
孝介の返事はなかった。