目が醒めて時計を見ると七時五分だった。足立はのそのそとベッドを抜けてまだ鳴っていない目覚まし時計のアラームを止め、カーテンを開けて天気を確かめた。
 日の出からさほど経っていないらしく、空は靄がかかったようなぼんやりとした色に包まれている。少し雲があるように見えるが、確か天気は悪くない筈だ。今日はタオルの類を洗濯してしまおう。そう思いながら自室を出た。
 居間の明かりを付け、ついでにテレビも付ける。トイレで用を足したあと、NHKのニュースを見ながらコーヒーを淹れた。今はまだ一人分でいい。休日、孝介が起き出すのは八時を過ぎてからだ。本当は自分ももっと眠っていたいと思うのだが、長年の習慣のせいでいつも六時過ぎには目が醒めてしまう。刑務所では六時半起床、二十一時が就寝だった。今でも夜は十時を越すとひどく辛い。
 だが孝介は、「歳のせいじゃないんですか」と一笑に付しただけで終わらせてしまう。今に思い知るがいい、と苦々しく思ったが、考えてみれば孝介が自分の歳になるにはあと十一年待たなければならない。その頃には自分も十一年分歳を取っていて、そうなると今度は「歳なんだから仕方ないでしょ」と呆気なく終わりにされる気がする。
 ――あーあ。
 若いってある意味特権だよなぁ。そんなことをぼんやり考えつつパンを焼いて食べた。物足りないのでリンゴを齧り、流しに残っている洗い物を片付け、八時になるのを待ってから洗濯を始めた。孝介が起き出してきたのは、そのすぐあとだった。
「……おはようございます」
「おはよー」
 部屋からアイちゃんを連れてきて胸に抱き、ソファーに座って携帯電話をいじる足立の目の前を、寝ぼけまなこの孝介がのろのろと歩いていく。ぶつかりそうだなぁ、などと思いながら見ていたら、案の定テーブルの角に足をぶつけて鈍い悲鳴を上げた。そのまま、だるそうにぶつけた箇所をさすりつつトイレ方面へと消えていく。案外寝起きはシャッキリしない男である。
「足立さん、コーヒー飲みたい」
 戻ってきた孝介は足立の腕からアイちゃんを奪い、抱きしめてソファーになだれ込んできた。寄り掛かってくる頭から逃げるようにして立ち上がり、足立はコーヒーの準備をする。
「コーヒー飲みたい」
「今淹れるってば」
「濃い目がいい。あとミルク山ほど」
「はいはい」
 機械に粉と水をセットしてスイッチを入れる。振り返ると、孝介はアイちゃんを抱きしめたままソファーで伸びていた。また眠ってしまったのかも知れない。足立は流しに置いていた携帯電話を取り上げ、そっとテーブルに戻した。そのわずかな音に気付いて孝介は目を開けた。
「足立さん、棚、いつ買いに行きます?」
 訊きながらのっそりと起き上がる。足立は「いつでもいいよ」と言って向かい側に腰を下ろした。
「君が暇な時で」
「年中暇ですよ。なー、アイちゃん」
 孝介はアイちゃんと額を合わせてグリグリと顔を左右に振っている。あと三十分くらいはこんな調子だ。足立は苦笑を洩らして、
「じゃあ今日」
「わかりました。……昼飯ついでに買いに行きましょうか」
「うん。お願い」
 この二ヶ月のあいだ、押入れを開けっ放しにしてそこへ荷物を置いていたのだが、さすがにそろそろ限界だった。それを言うと、駅から少し離れた大通り沿いにDIYの店があり、材料だけでなく組み立て式の家具を売っていると孝介が教えてくれた。彼もここで暮らし始めてから何度か利用しているそうだ。自分で組み立てる面倒はあるが、その分ひどく安いという話だった。
「むしろ二ヶ月間もあのままだったって方が驚きですよね」
「そう?」
「足立さんは極端過ぎるんですよ」
 孝介は胸にアイちゃんを抱きしめたまま、ぼけーっとテーブルの上をみつめている。先月購入したばかりの、足立の携帯電話がそこにある。
「タンスはいいんですか?」
「……うーん」
「そろそろ本格的に冷え込むし、夏物と一緒じゃ滅茶苦茶になりますよ。押入れの下に入れられるようなサイズのでも探しましょうよ」
 部屋には未だにテーブルも置いていない。無いと確かに不便だが、だからといって生活出来ないわけでもない。孝介との共同生活には馴れてきたつもりだ。それでも頭のどこかでは、常にここから出ていけるよう身軽でありたいと考えてしまう。
 不意の沈黙に気付いて目を上げると、アイちゃんの頭の上にアゴを乗せて孝介がじっとこっちを見ていた。
「まあ、お店行ってっから考えようかな」
 コーヒーの出来上がる音を合図に足立は立ち上がった。カップを取ってテーブルに置き、棚からクリームパウダーの入った瓶を出す。スプーンと一緒に瓶を渡すと、孝介は山盛りにしてカップに放り込んだ。
「朝ご飯どうする? パンあと二枚だけあるよ」
「……足立さんが焼いてくれた、ごっつ美味いトーストが食いたい」
「いや、焼くのは僕じゃなくてオーブンだけど」
 トレイにパンを乗せているあいだ、孝介は床を伸びて冷蔵庫を開けた。
「うわ、ほっとんど空だ」
「買い物もしてこなきゃだね」
「俺、来週……来週は早めに帰れるから、なんか作ろうかな。ってことは、えーっと……」
 孝介は床に伸びたままこっちを見上げた。そうして指折り数えつつ、
「家具屋でしょ、スーパーでしょ」
「お昼は外で食べて」
「……昼飯の前に、足立さんのごっつ美味いトースト。トースト早くぅ」
「今焼いてるからっ」
 焦れてジャージの裾に絡み付く手を、足立は軽く蹴り飛ばした。


 仮出所を果たしてから二ヶ月が過ぎた。もうじき十一月も終わる。
 この二ヶ月のあいだに増えた物がある。自分の部屋、仕事、同居人。新たに買い込んだ洋服。戻ってきた物は運転免許証と携帯電話。
 免許証は失効していたものを手続きした。携帯電話はそのあとしばらくして買った。最初はいらないと思っていたが、ないと不便だと孝介に言われ、同じ通信会社の物を購入した。
 部屋に居る時、たまに孝介が隣の部屋から掛けてくる。内容は、明日仕事で遅くなるとか、当日でもいいだろ、っていうか一々電話するなここ来て話せ、というようなことばかりだ。それでも電話越しに話していると、なんとなく昔のことを思い出して温かい気持ちになり、同時に落ち着かないような、居たたまれないような気分になった。
 未だに足立のなかで歴史が上手く繋がっていない。
 電話越しに聞こえる孝介の声は高校生の頃と殆ど変っていない。電話の向こうには当時の彼が居て、その声に応える自分はまだ刑事という身分で、まだ稲羽市に住んでいる――そんな錯覚を何度も覚えた。
 だけど目に見える風景は確かに「今」で、だから実は聞こえてくるこの声は過去からやって来ている、本当はもう孝介はどこにも居ない。あの霧のなかに消えてしまった。電話のたびに、そんな妄想じみた考えが頭に絡み付いて離れなかった。
 声が聞こえていても不安は拭い切れず、結局は足立が自室を出て孝介の部屋の扉をノックすることになった。大抵孝介は笑って出迎えてくれる。そうして互いに電話を切り、同じ空間で言葉を交わした。話すのは大体孝介の方だ。学生時代のこと、友達のこと、仕事のこと。堂島や菜々子のこと。東京での生活、相変わらず仕事熱心な両親のこと。孝介の言葉によって、やっと足立の歴史が動く。
 仕事にもだいぶ馴れてきた。最初は戸惑うことばかりだったが、社長の畑中が辛抱強く色々なことを教えてくれた。社長の奥さんである香代子は店番をしていることが殆どで、一緒に現場に出るのは畑中と、只野という二十三才になる青年の二人だけだった。
 只野は畑中の遠縁にあたる人物らしい。高校生の頃から小遣い稼ぎのアルバイトをしていて、そのまま就職したのだそうだ。ぶっきらぼうで言葉数は少なく、いかにも職人というような昨今珍しいタイプの若者だが、根は真面目で責任感が強く、手元が覚束ない足立の作業をいつも見守ってくれている。
 同棲中の彼女が居るとのことで、昼はいつも弁当持参だ。二人で結婚資金を貯めている最中らしい。
 自分のような人間が役に立つだろうかと最初は不安しかなかったが、二人のお陰でなんとか続けられた。それに意外なところで重宝された。
「ただいま」
 ある日店に戻ると、奥さんの香代子が渋い顔付きでノートパソコンの前に座っていた。カウンターの隅に置いてあり、常に電源は入っているが、殆ど地図の検索にしか使われていないという代物だった。
「どうした」
 畑中が訊くと、どうやら経理のソフトに入力をしている最中なのだが、間違った手順で終わらせてしまい、途方に暮れているらしい。サポートにも電話をして折り返しの連絡を待っている最中なのだが、一時間経ってもまだ電話がないとのこと。
「カズ。おい、ちょっと来い」
 畑中が只野を呼んだ。一番年が若いんだから機械には強いだろうということらしいが、只野は香代子が差し出す分厚いマニュアルを見ただけで「無理っすよ」と首を振った。
「お前、ネットとかよく見てるだろ」
「そりゃ見るけど、見てるだけですって。そんなんわかりませんよ」
 足立はマニュアルを受け取ってなかを開いてみた。文章量は多いが、順を追って見ていけばなんとか流れはわかりそうだった。
「これ、どうしたいんですか?」
「まだ月末じゃないのに月締めの処理をしちゃったの。元に戻したいんだけど、やり方が全然わからなくって……」
 そう言って香代子はくたびれたようにため息をついた。だいぶ長い時間、悪戦苦闘したようだ。足立はマニュアルをめくってそれらしき箇所をみつけ、ソフトを立ち上げてもらい、香代子に代わってパソコンの前に座った。
 ソフトを動かしてみると、何故こんなに分厚いマニュアルが要るんだと思うほど操作は呆気なかった。経理のことなど足立は微塵もわからなかったが、香代子の希望を聞いて求める状態に戻すのに、さほどの手間は掛からなかった。
「すごい。戻っちゃった」
 見馴れた画面になったと香代子は手を叩いて喜んでいる。後ろからのしかかるようにして画面を覗き込んでいた畑中が、いきなり足立の肩に両手を置いて揉み始めた。
「……お前、すげぇな」
「え、いや、全然すごくないですよ」
「いや、すげっすよ」
 只野までもが尊敬の眼差しを投げかけてくる。足立は困って、はあ、と言うだけだ。
 以来少しずつだが事務仕事の方も任されるようになった。現場へ出ない為に香代子とは挨拶をする程度で終わっていたが、そのお陰で徐々に打ち解けることも出来た。
 足立は日常に馴染みつつある。
 時々堂島が電話をくれた。仕事はどうだとか、困ったことはないかとか、毎回お決まりの台詞で始まる電話だ。
 なんとかやっていることを伝えると、そうか、それならいいんだがと言って、互いに言葉に詰まってしまう。元々喋ることが得意ではない堂島だ。ついでのように、孝介はどうしていると訊かれて電話を代わり、そうすると向こうでも菜々子に受話器が渡されるらしく、会話の途中でいきなりぞんざいな言葉が飛び出してくる。だがそれは愛のある悪口のようなもので、側で聞いていると笑ってしまうことが多い。
 足立もたまに菜々子と話す。食事はちゃんと取っているのかとか、そろそろ寒くなってきたから風邪なんか引かないでねなどと、妙に説教じみた台詞を投げかけられるのが、なんだかおかしかった。そうしてまた堂島に戻り、
『……ま、元気でやってるんならいいんだ』
 少しの沈黙のあと、じゃあまたなと言って電話は切られる。最後に、何かあったらすぐに連絡しろよと、いつも必ず付け加えられた。
 足立も孝介も仕事はカレンダー通りの為、休日はいつも重なった。大抵は土曜日に二人で家の掃除を済ませ、買い物へ行き、溜まった洗濯物を片付けた。一人の時はそんなことなどしようとも思わなかったが、自分だけじゃないと思うと、体を動かすのが苦痛ではなくなった。
 何も予定のない日曜日には――そして大抵どちらにも予定は存在しなかった――我慢出来なくなって孝介が動き出す。といっても大したことじゃない。映画のDVDを借りてきて一緒に観るとか、孝介の車でどこかへドライブに行くとか、何故か急にケーキを焼くから手伝えとか、そういうことだ。
 同居生活は楽しかった。ふと気を抜くと、ずっと昔からこんな風にして一緒に過ごしているような、そんな錯覚すら覚えた。いつまでもこうしていられたらいいなと思う時は多々あったが、それが出来ないことを、二人とも薄々は気付いていた。


小説トップ next