かすかなざわめきが聞こえていた。風に乗ってきな臭い匂いが漂ってくる。化学物質が燃える匂い。座り込んだ足立は、風が吹くたびに膝のあいだへ鼻先をうずめた。そうして少しでも匂いから逃れようとしたが、それはあちこちから流れてきて足立の体を取り巻いている。
時折どこからか爆発音が聞こえた。止むことのないざわめきと相まって、それは更なる混乱を予感させた。
――みんな、バカだな。
今更どうしようっていうんだ。それはもう始まってしまった。逃れることなど出来っこないのに。
「あんたは逃げないのかい」
背後で男の声がした。ひどく場違いな、のんびりとした声だ。足立は笑って首を振った。
「どこに逃げろって言うんですか」
「さあね。でもみんな逃げてる。もしかしたらどこかに安全な場所があるのかも知れない」
「ありませんよ」
答えて、足立は目の前の地面をみつめた。長いあいだ陽に晒された地面はすっかり乾ききっている。わずかな風にも砂埃が舞い上がり、履き潰された足立の靴に、組み合わせた両手に、寝癖だらけのぼさぼさの髪に、際限なくぶつかり、また降り注いだ。
「あんた、さっきから地面ばっかり眺めてるけど、そこに何かあんのかい?」
「――あなたは逃げないんですか」
答える代わりに質問をした。背後に立つ男は小さく笑ったようだ。
「逃げる? 俺が?」
しゃがみ込む音が聞こえた。顔のすぐ脇に腕が伸びて空の一部分を指差す。黒っぽいスーツ、場違いなほど綺麗なシャツの袖に、思わず目が引き付けられた。
「ホラ、見ろよ」
男がどこを指差しているのか、何故か足立には理解出来た。空を覆い尽くした分厚い雲の、一段と黒くなっている部分。
「始まったみたいだ」
言葉と同時に、雲の合間から大きな飛行機が落ちてきた。機体のあちこちから黒い煙を吹き上げている。飛行機は音もなく墜落を続け、やがて丸裸にされた山の斜面へと突っ込んでいった。予想していた衝撃はなかった。ただ耳元にまとわりつくざわめきが、一段と強くなったように感じられただけだ。
思わず立ち上がろうとした足立の肩を、男の腕が押しとどめた。
「あんたはここに居ろ」
「……」
「俺が全部やってやる」
そうして立ち上がり、足立の脇を歩いて目の前に立つ。地面の、みつめていた箇所をわざとらしく踏みにじり、こっちに振り返った。
寝癖だらけの髪の毛、だらしなく曲がった赤いネクタイ。口元には楽しそうに笑みが浮かび、座り込んだままの足立を、まるで石ころのように見下ろしている。
「あんたの望みだ」
男の背後でまた飛行機が落ちた。別のところで爆発音が響き、ビニールが燃え上がる嫌な匂いが鼻先にまで漂ってきた。ガソリンがじりじりと熱せられるのを眺めているような、嫌な予感が脳裏で閃く。足立は首を振った。だが男は口元の笑みを崩さない。
「あんたが望んだことだ」
言い聞かせるように男は繰り返した。足立はしぶとく首を振り続けた。
「――違う」
爆発音と同時に地面が大きく揺れた。女の甲高い悲鳴が風に乗って切れ切れに聞こえてくる。もう始まってしまった。わかっていたことなのに、足立は突然叫び出したいほどの焦燥感に駆られた。
「心配すんな。俺が全部終わらせてやる」
「待って――」
「あいつもきっちり殺してやる」
頭のなかが真っ白になった。足立は立ち上がろうとした。だが足に力が入らなくて転び、あわてて男を見上げた。不意に男の足が上がり、頭を踏みつけられた。男は苛立たしげに、それでいてどこか面白がっているように、言葉を繰り返した。ゆっくりと。
「あんたが望んだことだ」
「――違う」
反論に意味のないことはわかっていた。それを男が承知していることも理解していた。隠そうとすればするほど男は暴き、目の前にさらけ出す。何故って、それがこの男の役目だからだ。
「目の前で死ななけりゃいいと思ってたのか? 見えないところでなら、あいつがどうなろうと知ったこっちゃねぇんだろ?」
「違う」
「あんたは『選ばない』ことを選んだんだ。その結果がこれさ。望みどおりの結末で良かったじゃねぇか」
「違う!」
男の高らかな笑い声が辺りに響き渡った。それに呼応するかのように、またどこかで悲鳴が上がる。
「あんたはそこで、あいつの痕跡でも眺めて満足してろ。もう全部は始まっちまったんだ。あんたがなんと言おうと誰にも止められないさ」
足が引かれ、男は歩き出した。足立は身を起こし茫然とその後ろ姿を眺めた。
「……待って」
起き上がりたいのに力が入らない。もう手遅れだという絶望感が足立から全ての気力を奪い去る。混乱はどんどんと加速する。空はますます暗くなり、どこかで上がった火の手が雲の裾を舐めるように伸び上がる。町からは人の姿が消え、瓦礫と、崩れかけの建物だけが足立を迎える。あちこちで亡霊のように死体が起き上がり、黒い塊となってさまよい始める。
終わった筈なのに。
「待てよ。……待って」
行くな、戻ってこい。
足立は渾身の力を振り絞って起き上がった。そうしてよろけながら歩き出す。どこからか漂ってくる煙が視界を遮り、炎に照らされて、辺りは夕焼けのようだ。腕を伸ばし、手に触れた岩にしがみついた。風が吹いて一瞬だけ煙が晴れた。背後に男が迫りつつあるのに、孝介は少しも気付いていない。足立の叫び声を無視して孝介は歩き、背後の男は刀を振り上げる。
『あんたの望みだ』
夢から醒める寸前、男の声が耳元で笑った。
――何を選ばなかったんだろう。
足立は暗闇をみつめて考える。時刻は深夜二時。ふっと誰かに呼ばれるようにして目が醒めてしまった。
辺りは静寂に包まれている。孝介は眠っているようだ。
――何が選べたんだろう。
夢で眺めた地面のことを思い返していた。あの時、あそこには痕跡があるのだと信じていた。なんの痕跡? ――全てのものだ。自分がこれまで大事だと思っていたもの全て。それが、かつてはあそこにあった。そして今は無い。無くなってしまった「今」があるのは、それがかつてそこに存在していた証拠だ――と、飽きもせずに地面を眺めていた。
夢のなかの自分はそれを取り戻そうとしなかった。失くしたことを嘆きもしなかった。そうあるのが当然だと思って、日がな一日座り続けた。不思議なことに、そうして過去を思うのは幸せなことだった。
選ばないことを選んだ。
ただの夢だと思うのに、どうしても考えてしまう。あの時見た光景は、昔テレビのなかに存在していた。瓦礫の街、視界が悪いなかをさまよう化け物たち。
あれは何かを選ばなかった結果なんだろうか。ひとつひとつのことに立ち止まって真剣に考えを巡らせていたら、少しは違っていたんだろうか。
何が一体選べたんだろう?
足立は寝返りを打って目を閉じた。頭の芯が妙に冴え渡っていて眠れそうになかったが、少しでも休んでおかなければ朝が辛い。だが気が付くと目を開けて、暗闇のどこかをみつめていた。
今こうしているあいだにも決断を迫られている。眠るのか、眠らないのか。考えるのか、考えないのか。ただ時間だけが過ぎていく。答えを出せるのは自分しか居ない。
足立はあきらめて目を閉じた。とにかく休もう。これまでのツケが今まとめてやって来ているのだとしても、それに対してまだ選ぶ自由が与えられている。
あの時選択出来なかった「終わり」を。
2012.03.12/なんでかなぁ・その3