しばらく二人とも黙ってアイスを食べた。ひと口欲しいと孝介が言うので、途中で交換し合って食べた。孝介のは抹茶味だった。
「テーブル欲しくないですか」
アイスを食べ終え、緑茶を飲んでいる時、孝介が訊いた。
「こういうグラスとか置けるでしょ。あると便利だと思うけどな」
「まあ、そのうちにね。……あんまり物は置かないようにしようと思ってて」
突然孝介が吹き出した。驚いて見ると、「すごい部屋でしたもんね」と孝介が言った。以前稲羽市で暮らしていた時の部屋のことを言っているのだ。足立は困って頭を掻いた。
「君は、綺麗に暮らしてるよね」
「反面教師が居たお陰です」
「僕には無理だな。尊敬するよ」
「物がないだけですよ」
不思議なことに、孝介は動こうとしない。まだ寝るには早い時間だが、ここに居たところで何もすることはない筈なのに、どうしたのだろう。
「……一昨日会った時、すごい驚いてましたね」
「お、一昨日?」
孝介は言いながらアイちゃんの両手をさわっている。
「叔父さんの家で会った時。……そんなにビックリしました?」
「ああ……だって、こっちに居るなんて思わなかったから」
嘘だった。
「まぁ俺も、異動の話には驚きましたけどね。支社があるのは知ってたけど、まさか人員補充するとは思ってなかったし」
「そうなんだ」
「来れたらいいなって、ちょっとだけ思ってましたけど」
一年間だけだが、孝介はあの町で実に楽しそうに暮らしていた。やはり思い出深い場所なのだろう。
「足立さん」
不意に孝介が名前を呼んだ。振り向くと、孝介はためらいがちにこっちを見上げてきた。
「……あの……手、さわってもいいですか……?」
「手?」
孝介はうなずいた。足立は一瞬まじまじと自分の両手をみつめ、それからあわてて汗を拭くと、無言で片手を差し出した。孝介は怖々腕を伸ばし、人差し指に触れた。長さを確かめるように指先を滑らせたあと、もう少し手を伸ばして親指以外の指をゆるく握り込んだ。
足立は動けない。
握った手をみつめたまま、孝介は黙り込んでいる。よく指を差し込んだ髪の毛がすぐそこにあった。こうしていると、今がいつなのか本当にわからなくなってくる。自分たちはどうにかしてあの冬を越え、そのまま一緒に暮らし始めたんだという錯覚に見舞われた。
足立はあわてて目をそらせた。そうしないと抱き寄せてしまいそうだった。
「よく十二年で出てこれましたね」
非難の音色はなかった。足立は恐る恐る振り向いた。心なしか、孝介は微笑んでいるように見えた。
「……証拠がね。どうしても曖昧になっちゃうから」
「テレビのことは話さなかったんですね」
「言ってもしょうがないし。下手におかしな方向に話が進んで、精神鑑定がどうのこうのってなるのも嫌だったからさ。……まっとうに裁いて欲しかったんだ」
ちらりと孝介が顔を上げた。足立は知らずのうちに目をそらせていた。
――本当はあの頃、ずっと死刑にしてくれとそればかりを願っていた。だが自分に付いた国選弁護人がやけに熱心な人物で、隠したいと思っている矛盾を、それこそ重箱の隅をつつくようなしつこさで繰り返し確認させられた。検察側もかなり強気に出たが、こちらも結局は証拠不充分ということで追及が完全ではなかった。
求刑は無期懲役。判決は懲役二十三年。ほぼ半分の刑期で出てきたことになる。
十二年で仮出所出来たのは堂島の力が大きい。立場のしっかりした人物が身元引受人になってくれたお陰だ。初犯だったことや、刑務所内での真面目な態度も大きく影響していると、同じ部屋に入っていた仲間が教えてくれた。
でも真面目に作業をこなしていたのは、別に早く出たいと思ってたからじゃない。願っていた死刑が与えられず、ただ茫然と毎日を過ごしていたのがそう見えただけだ。
今ならどうすればよかったのかがわかる。弁護人の言うことを全部否定して、ただ面白半分で殺したのだと主張すればいい。そうすれば今、ここに居ないで済んだ。
「裁判、見に行ったんですよ」
「……知ってる。制服着てたよね」
孝介は小さくうなずいた。
紺のブレザーに青っぽいネクタイ。入口に近い席にいつも座っていた。顔をはっきりと見たのは最初の時だけだ。以来姿を捜すことはしなかったが、いつも居ることには気付いていた。
望みどおりの判決だったんだろうか。自分に課せられるべき制裁は、本当はどれくらいが似合いなんだろう。
「裁判って平日だったよね。学校はどうしてたの」
「サボりましたよ。当たり前じゃないですか」
孝介は言い、もう少し大きく手を握ってきた。
「……どうなるのか、すごく気になったから……」
更に強く手を握られ、そのまま腕を引かれた。指先が孝介の唇にわずかに触れた。足立は空いている方の手でシーツを思いっきり握り締めている。こもった呼吸が指先に掛かるたびに、大声を上げて逃げ出したくなる。
――君のことなんか忘れてたよ。
言いそうになって、あわてて奥歯を噛み締めた。だけど本当のことだ。
だって、どんな顔をすればいい? なんて言って謝ればいい? 最初から最後まで裏切ることしか出来なかった。せめて恨んでいてくれと思うのに、法廷で見たものはすがるような、懐かしむような、そんな顔だった。罪悪感で胸がいっぱいになり、取り返しのつかないことをしたのだという後悔にさいなまれ、それでも、もう全ては終わった。裁判のあいだ死刑判決が下り、法の名のもとに殺されることばかりを願っていた。それが唯一出来る詫びだと思ってた。
だけど実際に下されたのは懲役刑だ。事件の特異性の為に死刑になることも出来ず、刑務所のなかで無為の時間を過ごしてしまった。
頼むから恨んでいてくれ。その思いがやがて、恨んでるんだろうな、いやきっと恨んでるに違いない、むしろ憎くてたまらない筈だ――そんな根拠のない確信へと変わっていった。そうだと思い込もうとした。生かされてしまった現実と、同じように塀の外で生きている人間の存在を受け入れるには、そうやって自分を誤魔化すしかなかった。
一年が過ぎ、二年が過ぎた頃、足立のなかで自分は、孝介から立派な軽蔑の対象になっていた。五年が過ぎた頃、きっともう自分のことなど忘れているに違いないと考えるようになった。
犯罪者はあとからあとからやって来た。人は色々なところで殺されていた。色々な理由があった。自分の犯した罪など、そこへ入れば紛れてわからなくなってしまうような、小さなものだ。きっとあの子は僕のことなんか忘れてる。忘れてくれるのが一番だ。きっと可愛い彼女と一緒に、幸せな未来を手に入れている。絶対そうなっているに違いない――。
そうして足立は勝手に安心した。償うことも出来ず、かといって抱え続けるのも辛いから、そうやって自分を安心させて孝介のことを忘れた。忘れるしかなかった。
忘れてたのに。
『お久し振りです』
まるで当たり前のように孝介は現れた。幽霊を見た時だってあんな恐怖は覚えないに違いない。
今またこうして側に居ることが、果たして僥倖なのか、あるいは新たな刑罰の始まりなのか、足立には判断がつかなかった。握られた手の温かさが十年以上も昔の甘美な記憶を手繰り寄せようとするが、今はあの時とは違う。自分の人生は終わった。でも孝介はそうじゃない。
「……彼女とか居ないの?」
ピクリと孝介の指が動いた。のろのろと顔を上げ、下の方から睨み付けてくる。
「半年前に別れました」
「あ……えと、ごめん」
「……別にいいですけど」
力を失った目がゆっくりと落ちていく。一度ぞんざいに足立の腕を引き、しばしためらったあと、握った手を自分の頬に押し当てた。足立はされるがままだ。
孝介は目をつむり、何度か深呼吸を繰り返した。握る手に力が込められ、あれ、と思った時には、孝介の目から涙が落ちていた。
「死刑になるんじゃないかって、ずっと怖くて……っ」
――何も変わっていない。
孝介は手を握ったままベッドに突っ伏し、声を殺してしばらく泣いた。見えないのはわかっていたが、足立は首を振っていた。
「もしそうなってたとしても、それは君のせいじゃないよ」
「……俺が足立さん、捕まえたんじゃないですかっ」
「でも君のせいじゃない」
孝介はベッドから顔を浮かせてしゃくり上げている。涙が落ちてシーツに吸い込まれるのが見えた。
「君は誰かを殺したりなんかしない」
死ぬとしたら、それは正当な罰だ。
泣き続ける孝介を見下ろしながら、やっぱり何も変わってなかったんだなと、茫然と考えた。忘れているに違いない、なんて、そんなのは都合のいい思い込みだ。自分だけが楽になれる方法だ。実際には何も変わっていない。自分も孝介も、十二年前から歩みを止めたまま、どこへも行けず途方に暮れている。
やがて泣き声が小さくなっていった。孝介は足立の手を放して涙を拭い、すいませんと、ぽつりと言った。
「明日は定時で上がれるんで、仕事終わったら電話します」
「うん」
香典袋を持ってのろのろと立ち上がり、疲れた目でこっちを見下ろしてくる。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
部屋を出ていくまで見送った。手には孝介の感触がずっと残っていた。
居間にあるテレビではお昼のワイドショーが流れていた。足立はおにぎりの最後のひとかけらを口に放り込み、ゆっくりと咀嚼を繰り返している。
今日は一人でコンビニへ行き、買い物をしてきた。店員からの問い掛けにもちゃんと答えることが出来た。大丈夫だ。大丈夫。そう何度も自分に言い聞かせ、口のなかの物をお茶で流し込んだあと、恐る恐る目の前にある電話の子機を取った。メモ用紙とボタンを何度も見比べながら苦労してダイヤルする。
呼び出し音が聞こえ始めた時は、それでも恐怖のあまり切ってしまおうかと考えた。そう出来なかったのは、二度目のコールが終わった瞬間、向こうで誰かが電話に出たせいだ。
『はい、畑中硝子店です』
「……あ……あの」
『はい』
ぞんざいな男の声がやや苛立たしげに言葉を待っている。ヤバい、心臓がバクバク言い出した。
「…………あの、足立と申しますが、社長さんは……」
『はい、私ですが』
相手の怪訝そうな空気は相変わらずだ。午前中に電話を掛けた時は別の男性が出て、社長は出掛けていると教えてくれた。昼には戻ると言われたのでまた電話すると言って切ってしまった。足立はしどろもどろになりつつ、堂島から紹介された旨を説明した。
『ああ、はいはい、聞いてますよ。よかった、電話貰えて』
堂島の名前が出たとたん、男の声音が変化した。親しげな空気に安堵して、足立は無意識のうちにため息をついていた。
『えーっと、とりあえずどうしましょ。一回うち来てもらえます? 簡単に説明とかしたいし。今日とか平気ですかね』
「あ、はい。――あ、あのでも、自分、その仕事したことないんですけど……」
『それは心配いらんですよ。すぐ馴れますって』
電話から感じ取れる限りでは、案外人がよさそうな人物だった。午後は三時半頃まで出掛けるというので、四時に面接へ行くことになった。履歴書を持っていくべきかと尋ねたが、「そんなんあとで構わんですよ」と豪快な笑い声が返ってきた。安心を通り越して若干不安にもなった。
どうにか電話を終わらせ、足立はテーブルに突っ伏した。それから顔を上げてテレビに表示されている時刻を確認する。店へ行くには電車に乗らなければならない。駅は二つ上ったところだ。確か孝介に見せてもらったネット上の地図では、駅からさほど離れているようには見えなかった。歩いて十分も掛からないんじゃないかという話だった。
残念ながら時刻表は覚えていないので、迷う可能性も考えて一時間前に出ることにした。一度シャワーを浴びて着替えたあとは、ずっとテレビを見て過ごした。部屋からアイちゃんを連れてきて一緒に座っていると、駄目なのはわかっているが店まで付いてきてもらいたくなった。けど、そういうわけにもいかない。時刻を確認し、足立はのろのろと腰を上げた。
「行ってきます」
名残惜しく握手をしてアイちゃんと別れた。